mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

思い出すこと23 忘れがたい井上靖と角川源義の講演会

 このごろ、時間はたっぷりあるのに、長時間、読書をつづけられなくなった。歳のせいだろうから仕方がないかと半分諦めている。手紙のやり取りをしている中村敏弘さんのこのごろの手紙は、なんと、読書を内容とする文量が多くなっており、丸善に行ってきた報告などは、その喜びが紙面からあふれている。年齢は私を超えているのだから、「歳のせい」などと言い、毎日、ノホホンと過ごしておれないと思う。中村さんの読書力は衰え知らずなのだ。

 8月最後の日は、長町モール内の「10分、いや5分床屋」(?)に行き、その後、紀伊国屋を立ち止まることなく横切り、100円ショップに直進、雑巾や洗剤などを買って帰ってきた。バス内で、紀伊国屋で立ち読みもしないで通過した自分にびっくり。
 帰宅後、書棚から、「三太郎の日記=補遺」(阿部次郎)と、「孔子」(井上靖)を取り出す。ふっと、学生時代、電力ホールでの、井上靖角川源義の文芸講演会を思い出したからだ。私は高校あたりからか、新聞の連載小説を読むことは一日の始まりになっていた。その中の一冊「氷壁」の井上靖にひかれて電力ホールに足を運んだのだった。

 私にとっては、作家の初めての講演会だったし、井上靖の新聞連載小説「氷壁」が終了してすぐぐらいだった(?)ので、妙に忘れ得ない講演会だった。出歩くとき背にするリュックにはいつも年表のブックレットを入れている。今は、岩波の「昭和・平成史年表」。この1956年度の余白に「氷壁 56・8・24~57・8・22」と、赤で書き込んである。理由はわからない。

 角川源義は、角川書店の創設者。その時の話の切り出しは、「仙台は、今日が2度目です。1回目は、阿部次郎先生の『三太郎の日記』の出版をお願いにきました。阿部さんに、もし断わられれば、『角川は終わりだ』という覚悟で仙台に来たのでした」と話し出したように記憶している。
 後に、「角川選書」が世に出るが、選書の1は「合本―三太郎の日記」、「2 三太郎の日記-補遺」となっており、「少数な刊行物であっても、この書物は耳を傾ける人々には、飽くことなく語りつづけてくれるだろう。私はそういう書物を次々と発刊したい」と書いている。

 講演会で井上靖は、「氷壁」の話をするだろうと思ったのだが、話はまるっきり違っていた。
 伊豆の、ある山奥の部落で村八分になった人についての話を耳にして、(そんなことがあっては)という気持ちから書き始めた作品の話だったように記憶している。井上は、その村八分を問題に考え書き始めたのだが、書き進めているうちに、主人公が、井上の意に反して、村八分にされるように進み、自分が書いているのに、自分でどうすることもできなかった、という話だったと記憶している。
 作品としてのこの話は読んでいないから、この時の話の詳細は書けない。ただ、この時、小説というものについて、課題をなげかけられたような気がして、この村八分の話はその後も時々思い出す。

 このごろはほとんど出歩かなくなっているからわからないが、このような講演会は、当時のように開かれているのだろうか。新聞が読まれなくなっているそうだから、新聞小説もあまり読まれないのだろう。そこから考えると、文芸講演会なども少なくなっているのだろう。世の流れとは言え、私は少々寂しく思う。スマホを持てば、この寂しさは消えるのだろうか。

 日教組全国教研の金沢集会に出た宮崎典男さんが、「『人間の壁』の取材に、作家の石川達三が、国語分科会に顔を出し、あとで、私の報告がその中で使われていた」と言っていたことがあった。当時は、教育研究集会なども、ずいぶん興味をもたれたのに、今は、元教師の私には何も聞こえてこない。何もわからないのに、何となく寂しくなる。( 春 )