mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

思い出すこと3 「電力ビル解体」の記事に想う

 4月1日、河北新報1面トップは「仙台・電力ビル解体へ」の大見出し。これが、忘れかけていた「電力ホール」に初めて入ったときのことを急に思い浮かばせた。
 大学2年の時だったと思う。ここを会場にして文化講演会があり、講師は、角川書店創設者の角川源義さんと作家の井上靖さん。当時、井上さんの「氷壁」が朝日新聞に連載中で、私の毎日は「氷壁」を読むことで始まっていた。その井上靖の名に引かれて電力ホールに行ったのだった。

 講演会は角川さんの話で始まった。
 「仙台は今日で2度目です。前回は、阿部次郎さんに『三太郎の日記』を出版させていただくよう頼みに来ました。もし、阿部さんに断られれば出版の仕事はもう止める覚悟でした」と話し出した。

 私は、阿部次郎の名は聞いていてもそれ以上は何も知らなかった。阿部次郎が仙台にお住まいということも知らなかった。また、ダメだったら潔く出版の仕事を止めるどころか、生きることも・・とまで考えていたという角川さんの冒頭の話に、(そのような覚悟で本づくりをしているのだ)と出版人の思いの強さに内心大いに驚いた。それは今もはっきりと残っているが、その後の話は、今まったく記憶にない。
 『三太郎の日記』は「青春の書」と言われ、学生の必読書のように言われていることも後日知ったが、私が三太郎を手にしたのはそれからしばらく後になってからだった。

 さっそく書棚から取り出してみた。それは『三太郎の日記=補遣』(昭和45年初版)。この本の自序の最後に「昭和25年10月5日雨夜 仙台 阿部次郎」と付されてあるが、そのなかに、角川さんとの話し合いの様子が次のように書かれてあった。

~~ かくて最後の「西詩余韻」が来る。これもすべて、昔「アララギ」に寄稿したものばかりであるが、私は最もこの部分を出し渋った。それは意に満たぬというばかりではなく、老後の道楽の一部として、閑と気分とに任せてゲーテの詩をこれからもポツポツ訳してみたいという心が、私には今でもなお残っているからである。幾編できるかはもとよりわからない。しかし従来訳したものも訳し直して、気に入ったものだけを集めて、出版するならばそれだけを出版したい。「写声機にも劣れるわが貧しき言葉」の訳なんか出したってしょうがないじゃないか。私はこう思ってなかなか承知しなかった。しかし口説き上手の角川君はついにその堅塁をも攻め落とした。君によれば、それは三太郎の日記」の一部分なそうである。それを翻訳とすればいろいろ不満もあろう。しかし若き日の訳者自身の抒情詩と見れば、何も降雪に拘泥するには及ぶまい。自分の出して貰いたいのは若い著者の抒情詩であるーーおおよそこういう理由で結局私を口説き落としたのである。~~

と。
 取り上げられている翻訳詩はゲーテ詩集。角川さんの必死さも見えてくる。このようにして、『合本 三太郎の日記』・『三太郎の日記 補遣』と単行本が刊行、全集にも収められ、『三太郎の日記』は「永遠の青春の書」として多くの人に読まれた(過去形はまちがい?)。阿部次郎の名は、加藤周一の労作『日本文学史序説』の漱石と木下杢太郎についての中にも名が出ている。

 私は、年に一度は林竹二先生の眠る北山霊園に行く。その帰り、必ず、同じ霊園内の阿部次郎の大きな自然石の墓石の前に立ってきているので、面識はまったくなくても年ごとに近くなっている感じがしている。 
 講演会時の井上さんの話は他所での雑談の中で話したことがあるので、ここでは略す。

 電力ホールには、前述の講演会後、よく行くようになった。私には広くて座り心地のいいホールでもあるからだった。一度だけ、映画好きの友人とホールを借りて映画会をもったこともあった。作品は、監督小栗康平・主演南果歩の『加耶子のために』。当日まで赤字の心配がつづいたが、なんとかそうならずに終えることができた。ホールの位置にも大いに助けられたことなども思い出しながら、その電力ホール解体は周辺一帯の再開発なそうだが、このホールの役割が小さくなかったことを大事にされる再開発になることを願っている。( 春 )