mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

思い出すこと9 詩「夕焼け」と友人M

 夏休み中にもたれたセンター主催の国語学習会で出されたレポートの中に吉野弘の詩「夕焼け」があった。「夕焼け」は、決まって友人Mを思い出させてくれる。

 大学生活の前半は叔父の家に厄介になり、後半は、叔父の家を出ての下宿生活だった。田舎出の私を、叔父はいろいろと面倒をみてくれた。初めてトンカツを食べさせてもらったのも叔父だ。今になるも、一番丁を歩いていて、その小路の入口を目にすると、一瞬そのときの様子が浮かんでくる。

 そんな私もいつの間にか、高校時代の友人に誘われ、ボート部に入っていた。ボート部と言っても、いわゆる大学対抗の選抜チームと学内の学部対抗戦のためのボート部があり、私はもちろん後者になる。
 合宿所は塩釜湾が河口になる貞山堀に沿ってあり、ボート部すべての部員がそこで生活を共にしていた。学部が違うだけでなく、出身地も様々で、そこに放り投げられたようなもので、私にとっては世界が一気に変わらざるを得なかった。
 ボート部は前期で終わり、それを契機に、叔父の家で世話になることも区切りをつけることにした。ボートで一緒だったMにそのことを話すと、「オレも寮を出ようと思っていた」ということで、以後下宿を転々とする。下宿というのもなかなか難しく、新坂通に半年、岩切に半年、残る1年は東仙台の小鶴と渡り歩いた。後で考えると、3カ所も歩いたことは自分の世界を広めるためにはよかったと言える。

 芦屋市の出だったMは、世間知でも私と段違いだった。たとえば、パチンコから質屋までMに教えられた。質屋もひとりで行けるようになった。結構本は読んでいたつもりだったが、作家「織田作之助」の名はMに初めて聞いた。しかもMは、オダサク・オダサクと言い、いかにも自分の世界の中の特別な作家という親近感を感じさせた。もちろんオダサクだけではない。

 長い休みに、芦屋のM家にやっかいになり、Mの案内で京都・大坂めぐりをしたことがあった。とくに京都は、写真で見ているものと、どうしてこんなにも違うのだろうと驚きの連続だった。どこに行っても、建造物とまわりの自然が調和し一体となっている。行く先々で同様のことを感じさせられる。毎日が夢の世界に入っているようだった。
 京都へ向かうある日、電車の車中で隣に座っていたMが突然あわてて立ち上がり、バタバタと降車口に急いだ。驚いた私は急に下車すると思いその後を追った。彼は、「いや、そうじゃない。オレの前に老人が立ったろう。どうぞと言って席をゆずればいいのだろうが、オレは、それを言えないので、次の駅で降りるふりをして、あわてるふりをして動いたんだ」と言う。聞いて私は(へえ、Mもシャイなところがあるんだ)と自分の鈍感を恥じることなく思ったのだった。

 吉野弘の「夕焼け」を読んだのは、しばらく後になってからだった。その間、バスや地下鉄を利用する私はひとりでも似たような場に出会うことがあり、後で自分の身の処し方を考えることが何度もあった。そのたびにMが現れるのだったが、詩「夕焼け」を読んでもすぐ、あの京都でのMが浮かんだ。きっかけの一つとして、自作について吉野弘は、『詩のすすめ』(思潮社)のなかで、「夕焼け」の背景を次のように書いている。

 一人の娘が二度まで老人に席を譲り、三度目は立たなかったという情景は、実際に私が見たことであったのか、あるいは像の中の出来事であったのか、今は判然と思い出せません。おそらく、この詩を書く以前、老人に席を譲る若者や娘を私は何度となく目撃し、長い間、私の中に蓄えられていたと思います。それが、ある日、同じような出来事を見たことがきっかけになって、この詩の中の一人の娘に結晶したのではないかと思います。
 これも、いつのことか思い出せませんが、老人に席を譲った少年がちょっと足の悪い身障者だったことがあります。少年は席を譲るとはずかしそうに人ごみにまぎれこんでしまいました。苦痛を知っている人ほど他人の苦痛に対して思いやりが働くのだなと私は思い、そのことがいまだに忘れられません。これなどもきっかけの一つになっているかもlしれません。いずれにせよ、この詩の中の娘には、それまでに私が見た多くの若者や娘がかさなっていると考える方が、私にとっては自然です。

 あの学習会で、この「夕焼け」をとりあげてみようとしたAさんはどんなことを考えてのことだったろう。
 Mは、一昨年他界した。彼はその一生を、あの電車の中での心づかいを持ち続けて・・・。( 春 )