mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

思い出すこと2 北海道旅行

  奨学金で、大志を抱け⁈

     

 私が大学に入ったのは1954年(昭和29年)。世の中のことは何も知らず、たとえば、受験に下駄を履いて行き、私の受検場の入口には「下駄履き厳禁」とあり、ハタと困り、これで失格は情けないと、ハダシで入室したことがあったが、類するような世間知らずが多々あった。

 現在、教育の問題は多く、その一つに教育費もあるようだが、自分の時を思い出すと、大学の授業料は1年で6000円。それ以外の納付金はいっさいなかった。また、奨学金は月額2000円で他学部についてはわからないが給付型だった。

 私は大学4年間の後半の2年は叔父の家を出て、郊外の岩切や東仙台に下宿したが、たとえば、東仙台~仙台間の鉄道の学割定期は月160円。一時、学部対抗のボート部に入部、塩釜の合宿所から通ったが、この時の定期は360円だった。
 このような時代だったから、2000円の奨学金はありがたかった。入学時だけ、7月に4か月分まとめて8000円。同じ高校からの友人Mと話し合って、こんなことはめったにないから「北海道一周旅行をやろう」ということになった。

 その日から、時間を見つけては時刻表をめくり、8000円以内で北海道を周れるかを考えつづけた。できるだけ広い範囲を周るために旅館を使わず車中泊等にすることに。幸い青函連絡船も鉄道の切符で3等船室はただで乗れる。所要4時間半なので、往復2泊は船中泊となれる。列車は普通車にする。「時間」よりも金をかけないことだ。計画はトントン進んだが、釧路~美幌間だけは何を使っても1本で通せず、阿寒で安宿を探すことにして8000円をもって出発することに。まず買った仙台~釧路間の乗車券は1400円。

 なんと出発の10日ぐらい前に青函連絡船洞爺丸が台風で遭難。1000名を越す死者を出したという大ニュース。それでもビクつくことなく出発。青森で深夜案内された連絡船の3等船室は、一人がやっと通れる階段を下りたところの船底。丸窓から外を見ると、波が休まず騒いでいる。Mは何も言わずにもう横になっていたが、洞爺丸のニュースが浮かび、狭い階段と丸窓に目をやると、とても横になれない。なんども階段を上り下りする。他人の目には、涼んでいるように映ったかもしれないが、トンデモナイ、船底が怖いのだ。函館の明かりが見えてきた頃、やっとウトウト。たいへんな出だしになった。でも、その後は順調。釧路までの列車は、狩勝峠で夜明け。広々とした十勝平野に「北海道」を感じウキウキとなる。

 釧路をしばらくうろつき、阿寒湖行きのバスに乗る。バス終点には、旅館の旗が何本も出迎える。安そうな旗(?)を探して交渉に入る。見栄も何もない。「1000円」「いや800円」「私たちは冬場は稼げないのだ」「オレらは学生」・・・と。最後は800円で決まる。勝ち誇った気分で部屋に。しかし、食事をとりながら、「この膳をみると、800円もわかるなあ。テキは上だ」などと感心しあう。

 翌日は阿寒湖を船上遊覧し、美幌に向かう。摩周湖は霧。網走行きは止めて、層雲峡に行くために上川駅で真夜中下車。駅の待合室で一泊。終列車なので、駅員が「お休みなさい」と消灯。この言葉は今になるも    不思議に心に残る。翌日は、層雲峡から夕方もどり、前日の夜中の列車に乗車するために、同じ待合室で仮眠。真夜中、札幌に向かう。
 札幌で北大の構内などブラブラ。夜の函館山からの夜景を目的に札幌を出発。先立って残金を確かめ、奥羽本線を通ることを選ぶ。ケチがうまくいっていることがわかったのだ。気持ちに余裕ができたためか、連絡船3等船室も眠ることができる。
 ゆっくりし過ぎたためか、山形は夕方になる。そんな時、駅前に1泊400円の旅館を見つけたMが「ここで旅の疲れを癒していこう」と言う。懐を確かめてあるのですぐ同意、翌日、仙台に帰る。

 何も知らない田舎者の私は、このときから、金と時間があると、そちこちをうろつくようになる。田宮虎彦の「足摺岬」を読んでは足摺まで一人で行くとか、土曜の午後、フッと裏磐梯を歩いてきたくなり、下宿に突然言って驚かしたり、すっかり旅好きになってしまった。
 今思えば、そのスタートが月2000円の奨学金による、この北海道行きであった。( 春 )