mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

未知なる存在としての子ども ~ オレは幸せ者4 ~

 私は初任校の3年後中学校に転勤、そこで8年間過ごし、その後は退職まで小学校で過ごした。中学校で同僚に恵まれたことについて前にふれたが、生徒にもたいへん恵まれた。彼らとの付き合いから、彼らに内在するさまざまな力に驚かされることが多く、彼らとの交わりを通して、一人ひとりとの人間としての向き合い方についてたくさんのことを学び、己の人間観を変えることを迫られる場に立たされることが何度もあった。ここでは、思い出す多くの中から、まず2つのことを書いてみる。

【その1】
 中学の2年目は学年持ち上がりで3年生担任になった。春の大きな学年行事は東京方面への修学旅行だったが、自分にとって今も忘れ得ない出来事が1つあった。それは、出発前のクラスでのグループ分けのときのことだ。

 グループつくりにあたって私は、「あなたたちの楽しみにしている旅行なのだから、グループ分けなどは当然自分たちで決めなさいよ」と話した。生徒たちは喜んで、さっそく、学級委員Kの司会で話し合いが始まり、あっという間に「組みたい者たち同士で組む」ということに決まった。そうなるだろうと思っていたが、内心そう決まることを私は恐れていた。理由は、夜尿症でおとなしいMの行き場についてだ。Mに「組もう」と誘ってくる者ないだろうし、おとなしいMから「入れて」と言うこともまず考えられないからだ。それが心配だったのだ。「組みたい者同士で組む」ことに決まって、周りは喜んでワーワー言っている。そこに私が名前をあげて口をはさむことは到底できない。

 司会者のKは、会の終わりに「ほかに話し合うことはないか。なければ話し合いはこれで終わるので、あとはそれぞれ集まってグループをつくれ。それからMは、オレの班に来い!」と言って会を閉じたのだ。私は大いに驚き、ホッとした。Mに目をやると、Mの顔が和らいで見えた。私の体から力が一気に抜けた。
 それにしても、Kは私の危惧を見ぬいていたわけではない。グループ分けのときのMを心配し、司会である自分が、その場を利用して先手を打ったのだろう。私は、(中学生って、なんて凄いんだろう)と思い、ただただ驚いて眺めていた。グループ分けはあっという間に終わった。

【その2】
 野球バカの私は、希望して野球部担当になった。土日もめったに練習を休まなかった。それでいて、秋の新人戦が終わり、オフに入るや、野球部の連中が多かったように記憶するが、山が霧氷になるまで、毎土日と言えるほど船形山に登りつづけた。
 バスの終点から登山口のキャンプ地までダラダラとした登り坂を2時間以上を歩く。それから背負ってきたテントを張り、夕食をつくり、翌日の夜明けとともに登り始める。そんなことの繰り返しなのだが、彼らは毎回喜んで「行く」と言う。家では何と言われていたかは特に聞くこともしなかったのでわからないが、現在なら、ほぼ考えられないのではないかと思うが・・・。

 そんなことがつづいていたある日、夕食が済んでテントの中で騒いでいた時、私の耳に、「お~い」と繰り返す声が遠くから聞こえてきた。騒ぎを止めさせると、その声は誰の耳にも入り、声がしだいに大きくなった。誰からともなく「Gの声じゃないか」「そうだ、Gだ!」「Gだ!」となり、テントを飛び出して 道路に走り出ると、自転車を押して登ってくるGの姿があった。
 理由はこうだ。Gは船形登山の常連で、今度も「行く!」と言ったのだが、彼は、翌日にある隣接する高校の運動会での郡内中学校招待リレーの代表選手のひとりであった。それで今回の山行きは我慢させたのだった。そのGが我慢できずに自転車を踏んできたのだと言う。
 しかも、「じゃあ、今晩はテントで一緒に過ごして、明日はここから帰るように」というと、Gは「一緒に登ってから帰る」と頑張る。
 仕方がないので、話し合って、明日のテント出発をGのリレー時間に間に合うようにスケジュールを変更し、夜明け前にテントを出発することにした。

 翌日は幸い天候に恵まれ、朝食は下山途中のたった1カ所だけある水場でつくり、食事後すぐGを一人で出発させ、他は片づけをしてキャンプ地にもどるということにした。私たちがテントにもどったときには、Gの自転車はなかった。
 私たちの帰りは夕方になったが、だれもがGのその後が心配だった。バスを降りてすぐ公衆電話から連絡すると、時間には間に合い、「優勝した」という返事。私たちはホッとし、解散した。
 翌日、Gはいつもと少しも変りなく過ごしていた。もちろん、私たちも。
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 2つの例だけだが、私に残る記憶はまだまだある。自分の中学生時代のことはもう薄くなっているが、KのこともGのことも、かけだし教師としての私への刺激は、たとえるもののない大きなものだったから今になるも薄れることはない。

 たまに、女子の群れが下宿に現れることがあった。私は、ほとんどその中に入ることはなかったが、彼女らはよくしゃべった。そして、いいかげんしゃべると帰っていくのが常だったが、そのおしゃべりのなかには、私の知らない彼女らがいたし、そこにいないAやBらについて知らないことも私の耳に入った。

 KやGのこともそうだが、見聞きする子どもたちについて私の知っていることは本当に氷山の一角なのだとよくよく思わせられた。いや、一角すらも見えているかすら危うく思うのだった。
 それでいて、子どもたちを容易に「よい」とか「よくない」とかと見ている自分に気づかされた。氷山の一角だけであっても確かに知ることの努力、見えない部分を少しでも見えるような努力をしているかが大いに怪しいと思うのだった。その普段の努力こそが教師である私に欠かせない必須条件のはずなのに。ましてや、生徒に見えたマイナス部分だけで、その人間評価や決めつけをしているのではないかと教師としての自分が大いに気になった。

 前回に紹介したYさんの手紙でYさんが私に言いたかったのもこのことだったと思い、「それでも先生になるのですか」と厳しく迫ったYさんのことばは、まさにこのことと思うのだった。( 春 )