mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

なかなか好評です! つうしん111号

 diary「思いつくまま、気の向くまま」で、センターつうしん111号が好評と書いたすぐ後に、読者の大沼さんからもメールで感想が届きました。
 大沼さんは、所長の達郎さんと小学校の同僚だったそうで、つうしんを出す度に丁寧な感想や意見を寄せてくれます。私たちにとっては、つうしんをつくる上での大きな励みになっています。つうしんの「読者の声」は、限られたスペースなのでいただいた感想を載せられないことも。今回は、このdiaryで、大沼さんからいただいた111号の感想を紹介します。

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 子どもと遊びは、いま学校にとって、家庭生活にとって、地域社会の在り方にとっても、子どもを核とするなら、なおさら忘れてはならない最重要な視点だと思います。それは大人にとっても共有されると思います。

 確かに「仲間とのリアルな生活世界での遊びの楽しさを体験していない子が増えている」のは実感します。6月7月と、学校を訪れ備えゲームや災害について学ぶ授業?をさせていただきました。久しぶりに楽しい時間でした。子どもたちの捉える力に感心し、私の学びの場でもありました。ただそこで感じたのは言葉の多さに比べ、そこに伴う生活感覚の乏しさでした。それは年々感じることが多くなっています。内山節(私も尊敬する哲学者です)が「現代社会は将来に備えた行動・活動をすることに現在・今をついやすことを求められ‥‥常に準備することに人生の価値を見出される時代になっているのではないか」と指摘するように、大人にとっても子どもにとっても、今という時間を充実して生きることができないのは、主体的な生活の貧困であり、特に子どもにとっては「子ども時代・子ども期」の喪失につながるという増山先生の指摘は、その通りだと思います。深刻な課題だと思います。

 さらに、「遊ばせ活動」「遊ばせサービス」と子ども自身が創り出していく多様な遊びとを分けてとらえる視点が必要であり、体験をしていない子にとっては、大人が準備した活動は、子どもたち自身が遊びを展開していくための助走路・滑走路のようなものであり、その楽しさ・面白さ、心地よさを自分たちの生活に取り入れ、さらに改変し創造しながら遊びの世界を拡大していくところに子どもの遊びの独自性がある。そのためには何もしないことをする時間、他者からその意味や価値を問われない時間を持つ権利がある。そうした時間・場を持つことが大事なのではないでしょうか。

 そう考えた時、思い出したのは、井上ひさしが「忘れられない本」として、国民学校6年生の時に読んだ「どんぐりと山猫」をあげ、言葉では表せないと思っていた自然の景物が擬声語を伴ってあふれるばかりに出てきたことをあげていたことです。けんじゅうの森の子どもたちのごとく、賢治の童話のごとく、草木ことごとく物言う自然の中で、それと一体化して遊んでいる子どもたちの感性こそ大人たちが学び、このような感性を生き生きと開花する環境を子どもたちと共に創り出すことが大人たちに求められます。

 子どもたちから学び遊びを創り出しゆくその方法を論理的にも見事に示してくださったのが岩倉先生そして、虹乃氏の「幼児の模倣と遊びの力、ライゲンの役割について」です。すぐれた実践ですし、幼保小連携、共に学び合うことの必要性を思います。児童館での子どもの姿も、学校とも家庭とも違います。一番その子らしさを出しているように思います。「児童館で遊ぶ子どもたち」先生方も視るべきです。交流をしていくことが大切ですね。

 子どもの生活を学校生活をもっと豊かにするために、関わり方をご自身の実践を通し「先入観を持たず根気よく」と報告された高橋大助さん。「短歌のちから」で、子どもたちと一緒に好きな世界を追究する小野寺先生。こうした先生方が学校を創れば、きっと子どもたちの居場所になることでしょう。そうした環境ができれば、子どもたちには力がみちてくることをセンター報告は示しています。

 学校給食の諸問題で無償化それ自体が目的とされるべきではなく、本来の教育の目的である子どもの人格の全面的発達を保証する際の学校給食の役割をどう果たすかこそが大切な視点であるとこに気づかされました。
 子どもの詩、そして写真、毎号素晴らしいです。