mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

最後まで、子どもとともに ~ オレは幸せ者13 ~

 2学期に入って、アメリカのKからクラスに手紙が届いた。それについてのEの日記の一部が以下だ。

 この前、Kから手紙が来た.班ごとに手紙を書いているけど、もうだいたいの班はおわっている。7班は今、「みんなからの一言」で止まっている。「いつするの?」と聞き合っているけど、そこからなかなか進まない。私は、(6班もまだかな?)と思って6班を見たら、ほとんどできあがっているみたいだった。(急がなくちゃ)と思っていたのに、モビールのこともあるから、もっとたいへんになってきた。はやめに手紙を書けばよかったけど、初め、どんなふうにするかまよっていたから、おそくなってしまった。(後略)

 子どもたちもいろいろ忙しかったが、最後の年になるオレも大いに忙しかった。そのいくつかをあげてみる。

 一つは、4月早々から、学校の裏の私有林の中の木の一枝の先の定点観察を1年間つづけさせたことである。それぞれが自分の観察する枝先を決めてスケッチし、簡単な説明を加えるというものである。できれば1月から12月まで、夏休み期間も入れたかったのだが、これはどだい無理なので、4月開始で2月まで、長期休みは抜いて、結局、15回で終わった。その後、それぞれの15回分の一覧を作り、話し合いをした。以下は、Tのその日の日記。

 今まで、1枚目、2枚目と、バラバラに見ていたので、先生が全部ならべていんさつしたら、とてもよく分かったことがありました。
 まず1枚目は、先生たちが言ったように、それぞれの枝も、“ じゅんかん ” していること、にとてもびっくりしました。(自然の「物」であるかぎり、みんなじゅんかんしているんじゃないかな)とか、(自然ごと、ゆっくりじゅんかんしているのでは・・・?)とか思ったりしました。でも、もっとびっくりしたことがありました。ほとんどみんな、ほぼ同じ所で『虫』のことを書いていたからです。6月ごろ、あつくなってくるぐらいから、さむくなってくる10月ごろにかけて。あついときは、虫たちは活動しやすくなるのでしょうか? それと、冬に近くなると、葉っぱがかれたり、食べ物がなくなったりするから、冬にそなえて食べるのでしょうか? とてもふしぎで、すごく知りたいです。
 こういうふうにかんさつきろくを楽しく見れるのは、全部ならべて見てみると、いろんなことが1ぺんにわかるような気がします。ふしぎなことや、知りたいこと、好きな心が心の中からわいてくるような気がします。自分でもかんさつ(もしするとしたら)もっと大きな画用紙にグラフとか書いて、もっともっとくわしくやりたいです。理科のべんきょうも、もっと楽しくやれそうです。これからは、かんさつきろくを書くのではなくても、かわってる花とか見つけたら、よく見てみることにします。ふつうより、いろいろな虫がいるとかわかるかもしれないので。(2月16日)

 二つ目は、以前の4年生でも取り組んだものに手を加えながらの「土・水・森林・海・人間」についての授業で、これは、1学期の途中から3学期の終わりまでかかった。以前、始めた時は「土・水・森林」だったが、授業が進むにしたがって、「人間は何を?」と気にする子どもたちが出てきたので、「海・人間」を加えたのだった。次の文は、「森林」の授業が終わった1月22日に書いたNの文である。

 「土」「水」「森林」、これらには、すべてに「命の水の流れ」がある。それぞれの仲間と助け合い、おたがいが生きている。
 命の水の中に人間はいるか。どの流れの中にも人はいない。むしろ、流れをたち切る石のようなもの。
 私たち人間は、なぜ自然のあたえてくれた生きる道を、自分たちでこわすのだろう。生きるのには、それにたよって生きていくしかないのに。それをこわせばいきていけなくなるのは、わかるようなものなのに。
 なぜ、自分で死ぬような道をえらぶのだろう。
 自然をこわしていく人間は、こわくないのだろうか。
 自分たちで死へせまっていっているという事実がわかっているならば、なんとかしなければいけないと思う。
 こわすことができるのなら、もどすことも人にできないだろうか。
 木をうえたり、まちがった考えで、自然をこわしている人びとに自然がどれだけ自分たちにひつようかということを伝えることはできないだろうか。
 「土」「水」「森林」は、みんなで、自然のものたちで、手をつなぎ、自分たちで生きている。
 人も、その『わ』の中に入れないだろうか、自然を大切に守るものとして。

 もう一つ力を入れたつもりのものを加えると、(学年での取り組みとしてオレが提案したものだが)学芸会で「朗読劇」の取り組みだ。オレは、子どもたち全員を大勢の観客の前に一人立って両足をふんばり、一つの物語を学年全員で伝えきることをさせたかった。そのために、短期間であったが、一つの物語として観客に伝えきれるようにするために学年全員で集まり、何回も批正し合うことをやった。使用した物語は「おしになった娘」(松谷みよ子作)。

 次は、自分の受け持つことになった個所をどう読むかを考えたMの取り組み初めに書いた文。練習はここからのスタートになった。最後に書けば、きっと大きく違っていたろう。

41 そのとき、もりいがかすかに目をあけました。
44 五作は、もりいに顔をよせました。
47 糸のように細い声はそれっきりとだえて、もりいはもう、こんこんとねむり
   つづけるのでした。

 私の読むところは42,44,47番の3つです。41番は、ねていて小さな声で言った次の文だから少しおどろいたようにやさしいようなかんじで言った方がいいかと思う。気をつけて読んでいるところは全部だけど、一番気をつけているのは、「かすかに目をあけました」というところを気持ちをこめて読んでいます。
 44番のところは、42番の「おらあ、あずきのまんま、くいてえなあ」と言って、43番は五作は「えっ」と言った次だから、どう読んでいいかわからないけど、気持ちをこめて、「、」や「。」に気をつけて読んだ方がいいと思う。47番も、やっぱり「、」や「。」。それに気持ちをこめて読むのもそうだけど、「こんこんとねむりつづけるのでした」の「こんこんと」を少しゆっくり読んで、「ねむりつづけるのでした」は、ふつうのはやさに、ていねいに読めばいいと思います。どこの文でも、「、」や「。」に気をつけて、気持ちをこめて読むのに気をつけて読もうと思います。

 授業や行事に力を入れたと言いながら、それについては子どもが書いた文を1例ずつあげただけなので、読み手にはまったくわからない報告になるだろう。でも、私自身では十分満足する最後の1年間だったと、四半世紀後になる今、久しぶりに便り「こなら」を読んで、子どもたちに感謝している。そして、たとえば、森林の授業後のNさんの文の読んだ後では、ロシアのウクライナ侵攻などのニュースをどんな思いで見ているだろうなどと考えたりもした。

 ともかくオレは、子どもたちに恵まれた(子どもに言わせればそうではないかもしれないが)。そして、たくさんの同僚にも。サークルで一緒だった仲間とは今も学びの場で一緒させてもらっている。オレは本当に幸せ者だ。

 そのスタートを切らせてくれたYさんにあらためて感謝し、ダラダラと書き並べた自分勝手な文を閉じることにする。( 春 )