mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

松下竜一さんに出会って ~ オレは幸せ者5 ~

 手元にある『豆腐屋の四季―ある青春の記録』(松下竜一著)は文庫本なので、私が読んだのは1983年ということになるのだろうか、もっと前に読んだように思っていたが。著者年譜によると、31歳の1968年に自費出版、翌年講談社より公刊とあるので、私は世に出てから15年後に読んだことになる。朝日歌壇などに投稿した短歌を中心にしたエッセー集。この中に、「運動会」と題する見開き2ページの文がある。

 寝る前のひと時、とこに座って妻が折る紙鶴の音が、夜ごとひそやかに聞こえる。千羽を越えてなお続ける。一羽一羽に妻はどんな願いを折りこめているのか。ねえお前、生まれてくる子がどうか人並みに走れる子でありますようにと祈りつつ今夜の鶴を折ってくれよと、私は妻に言う。
 ひどく運動神経のにぶい私は、殊に徒競走が異常なほどのろかった。そんな私にとって秋晴れの運動会がどんなに辛かったことか。前夜、いつも私は神様に雨をお願いして眠れぬ床にもぐりこんだ。願いもむなしくカラリと晴れた朝、私は暗い暗い気持ちで登校するのだった。全校の児童、父母の見守るなかで、私は必死に走るのだったが、いつもただひとり運動場を半周もとり残された。歯を食いしばって走りつつ、ゴールは果てしなく遠い思いだった。(中略)
 四年生の日、私はとうとう団体競技を前に裏門から逃げ出した。ひとりでズンズンと海辺まで行くつもりだった。「竜一ちゃん」とうしろから呼ぶ声がした。ふりむくと母だ。母は私の小さな胸うちの秘めた悩みを見抜いて、たぶん私から目を離さなかったのだろう。私はワッと悲しみを爆発させて母に泣きついた。あの日、あの畦道の熟れた稲の香を今も忘れぬ。私は母に慰められて競技に戻っていった。私の組は私ゆえに負け、私は級友からさんざんにののしられた。だが、あのとき私を追ってきた母ゆえに、とうとう小学校の六年間、私は運動会から逃げ出す卑怯をせずにすんだ。(後略)

 読む私の中で、運動会でいつも後方を走る数人のクラスの子どもたちがすぐ頭に浮かび、過去の子どもたちの同様の姿も次々に浮かんできた。どの子たちも、竜一少年と同じような思いをしつづけたのだろう。そして、その子たちの母親たちも、会場から出る竜一少年をすぐ追いかけるような気配りをしながら毎年運動会に参加していたのだろうことを思い、長い間、そこまで思うことなくワーワーと騒いできた自分を恥じた。

 かつて、中学3年を担任していた時、隣の組の女子数人が運動会の近づいた時、「徒競走反対」と書いたビラを校内のそちこちに貼ったことがあった。それを目にした私は、「なかなかやるじゃない!」と彼女らに言ったことがあったが、そう言った私と彼女たちとの間に相当な距離があったこともこの時思った。
 竜一少年と母親の「運動会」を知ってから私は、運動会の種目を職員全体で考えることは容易にできそうにないが、せめて今のクラスの子どもたち全員に、「オレは走ったぞ!」と思わせることはできないかを考え始めた。とは言いながら、そう簡単にアイデアは浮かばなかった。

 それから数年後になるだろうか、4年生担任のとき、徒競走ではなく、私のクラスだけのグループ対抗リレーをやってみることにした。教室でのグループ〈班〉は時々変えるが、男女混合でいつも私の一存で決めていた。
 ある体育の時間、私は、「今日はグループ対抗のリレーをやる。2人で校庭1周、グループ6人だから3周のリレーになる。特別のきまりを一つだけつくる。それは、ひとりは4分の1周以上は必ず走り、ひとりは最大4分の3周まで走っていい。力はいろいろ違うから、どうするかをグループ内で十分話し合うように。距離が違えば、バトンタッチの場所もいろいろ違ってくるだろうから、図を書いてそれぞれの場所と順番をよく確かめたほうがいい。」と言った。

 どのグループも私の予想以上に熱心に話し合い、話し合いが終わるとどの子も張り切って自分のスタートする場に移動した。見事にバラバラだった。
 3周のリレーはあっという間に終わった。すると、いくつかのグループから「もう1回やりたい」と言ってきたのだ。その中には、なんと足の速くない A や B も入っていて、「もう一回!」「もう一回!」と言っている。どのグループも前よりいっそう真剣に話し合った。その様子を私は内心うれしく眺めていた。
 その後にあった学校全体の授業参観日に、このリレーを母親たちに見てもらおうと思い、その日の親の集合場所を校庭とし、残りの時間は教室でという不規則な時間設定の案内をした。リレーについての感想をとくに話してもらうことはしなかったが、私にとっては十分満足な参観日になった。

 その後の体育の時間の準備運動は、グループごとにランニングを自由にさせるようにした。毎時間、先頭を交代制にし、どこをどう走ってもいいが、必ずグループの先頭者の走るように一列で走ることにした。その案もしだいに見ていておもしろくなってきた。遊具などもコースに入り、できない仲間がいると手伝って、出発時の並びでもどってきた。ただグランドを1周するだけで帰ってきていたグループもコースを様々に変えるようになっていった。私は、何も言わずにそれぞれの様子を眺めて喜んでいた。

 松下さんの『豆腐屋の四季』によって、私の体育の授業観を変えていただいたと思っているが、体育だけでなく、九州の松下さんに一度もお会いすることはなかったが、私の生き方にまで大きな刺激をあたえていただいたと思っている。

 松下さんは、33歳のとき豆腐屋を廃業、同時に作歌もやめ、以後地域の運動にかかわっていく。私は、松下さんの発行する豊前火力絶対阻止・環境権訴訟をすすめる会の機関誌、「環境権確立に向けて」とサブタイトルをつけた「草の根通信」〈月刊〉の読者になった。
 松下さんからは、年会費を送金するたびに、礼状をいただいた。会員全員に松下さんひとりで書いたようだ。
 今、手元に残るもっとも古いハガキには、「御送金、ありがとうございました。伊藤ルイさんが亡くなられて,慌ただしい数日をすごしました。寂しさは、これからおいおい迫ってくるものでしょう。」と書かれてあった。伊藤ルイさんは大杉栄伊藤野枝さんの娘さんである。松下さんによって『ルイズー父に貰いし名は』の書名でその半生の記が出版されている。
 いただいた礼状は、次回からは封書になった。以下はその一例である。

 お 礼

 「草の根通信」へのご送金5000円をいただきました。ありがとうございます。不況の風 吹き荒れる中からの御送金だと思うと、感ひとしおです。
 今年は久々に喀血入院をしましたが、それでも通信発行がとだえなかったことはさいわいでした。ひょっとしたら毎月発行しなければならないという緊張感が、私の身体をかろうじて支えているのかもしれません。
 いまも咳に悩まされていますし、右肺の炎症感が消えることもありません。(二十日ほど前、痰に薄く血が混じり始めて、又喀血の予兆かとギクリとしたのですが、さいわい二日で消えました)
 裁判などで福岡市へ行くことが多いのですが、地下鉄の階段を登り終えるところでしゃがみこみたくなるほどの呼吸困難に襲われます。
 それでもまだ動き回れることに、感謝しなければならないのでしょう。(以下略)

 「草の根通信」は30年間つづき、2004年、松下さんの死によって380号で終刊になった。最後の方の通信編集は病院のベットの上が多くなっていったようだ・・・。