mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

プーチンのウクライナ侵略と日本、そして教育は何をすべきか

 いつ収束するか未だにわからないコロナ禍。収束どころかウイルスの方はどんどん進化している。ウイルスは変化しているのに、最初のウイルスのために作ったワクチンを接種することへの疑問もわき上がる。そのような鬱積した毎日に、さらに拍車をかけるかのようなニュースが飛び込んできたのは、2ヶ月前になろうとする2月24日のニュース。
 ロシアのプーチンが一方的にウクライナを侵略したという報道である。
 以後、今もウクライナ各地の空港や軍本部が攻撃され、続いて戦車や部隊が侵攻し、一般市民も殺される毎日が続いている。プーチンはこの攻撃を「戦争」とも「侵攻」とも呼ぼうとしない。大統領による正当化の理屈は、ほとんどが事実と異なるか、非合理といってもいいものだ。

 連日のニュースをテレビ・新聞でみながら、私は、あの頃の日本と同じだと思った。あの頃というのは、私が生まれる前の日本。つまり満州事変から日中戦争、太平洋戦争、第2次世界大戦へ突き進んだ日本だ。私は戦後派だから、それを学び知ったのは、今は亡き父母・祖母からの話、そしてもちろん『教育』によるものだ。ロシアの国営テレビは連日のようなプロパガンダで、これも当時の日本の大本営発表とまったく同じである。
 そんなロシアの国営テレビで3月14日、『事件』が起きた。夜の生放送のニュース番組中に「戦争をやめて。プロパガンダ(政治宣伝)を信じないで」との紙を掲げた女性が登場し、画面が切り替えられる放送事故があった。女性は、キャスターがニュースを読み上げている最中に画面に登場し、反戦を訴える紙を掲げ、「戦争をやめて」と叫んだ。キャスターも驚くこともなく、淡々と放送を続けていた。恐らくこのような行動をすることを知っていたのだろう。

 この場面をみて、私は長年続けている新聞のあるスクラップを探した。それは2017年8月15日付の河北新報の社説だ。見出しは『8月15日』。そして社説の中央に大きな文字で『言論の大切さを訴えたい』とある。「『手前みそだ』との批判を覚悟して紹介したいことがある」ではじまる以下、その一部を抜いて書き写す。

 終戦が迫った1945年(昭和20)年8月11、13日に、河北新報は「偽龍を愛し真龍を恐る」「戦争目的の真諦」と題する社説を掲げた。<中略>「戦争目的…」では、「最後まで戦ふ」ということを論じた後、「(勝つという意味の中には)相手から物をとる事にばかりあるのではなく、自ら多くの物を失ふことにもある。要は人類文化をそれを通じて、より高め、より聖めることにある」と結ぶ。戦争の早期終結を訴えたものだ。<中略>社と論説陣が「決意と覚悟」のもとに論陣を張ったものだったろう。  社説を執筆した編集局長寺田利和は軍部の圧力にもかかわらず、筆を曲げることなく辞表を提出。社は慰留したが、以来出社しなかったとされる。<略>
     戦争が始まると、言論が真っ先に統制されるのは歴史が示している。
     言論の自由は、与えられるものではなく、勝ち取っていくものだろう。言論を日々訓練し、非戦の力を蓄積しておくことは、平和なときこそ重要だ。きょうの日を、一人一人が非戦を深化させる日にしたい。 

 そして、3月14日のあの女性スタッフのあと、「決意と覚悟」をもったジャーナリストがロシアから出現することを願っている。『ペンは剣よりも強し』だ。今、ロシアのプーチンがもっとも恐れているのは、ロシア国内世論に違いない。
 一方、これはロシアに限ったことではない。ウクライナ報道の中に紛れ込むように、そして今がチャンスとばかりに、日本でも、やれ「敵基地攻撃だ」、やれ「核の共有が必要だ」、やれ「憲法改正だ」と声を張り上げている勢力がいる。その上に反戦デモや反戦報道を敵視するという防衛省資料がでてきた。これを止めるのも、日本の国民世論が最大の力になる。

 今朝(4/22)の報道によると、「敵基地攻撃能力」が国民の受けが良くないと感じたのか、「反撃能力」と改称した提言書にしたらしい。内容も、「ミサイル基地に限定されるものではなく、相手国の指揮統制機能等も含む」というのだから恐ろしい。  

 大きく話はそれるが、第2次世界大戦後の1950年、我が国で一冊の教育雑誌(月刊)が刊行された。『教師の友』である。今、私の手元にあるのはその復刻版だが、その創刊号の巻頭論文を、私たちの、このセンターでも大変お世話になった太田堯さんが『平和のための教師の仕事』のタイトルで寄稿している。こちらも冒頭と結びの部分を紹介したい。

 平和は私たち大人、それに子どもたちの日々の生き方にかかっている。
 教師が毎日とり組んでいるしごとは、そのことごとくが子どもたちをどう生かすかという問題である。どんな小さいことがらであっても、教師のしごとは、この子どもたちの生かし方への工夫と配慮をめぐって実践され処理することをたてまえとする。<略> こうした生きることのむずかしさは、現代社会のしくみそのものの中に不可分一体のものとしてくいこんでいる。経済恐慌、たえまなき戦争への直面によって、その頂点に達する。<中略>
    戦争の危機は、いまひしひしと私たちのまわりに迫ってきている。教師は団結して平和を国民に訴えるとともに、日々のしごとを平和と結びつけるための建設的な作業として、地味に一歩一歩つみ上げることが急務である。戦争は空気のように私たちのまわりにあるのだから。

※ この文は4月20日に書いたものだが、「敵基地攻撃能力」を巡って新しい情報
 が入り、22日に加筆し直したものです。<仁>