mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

教育ささえる星ひとつ "すばる" (1)

  北村秀雄さんのこと

 北村秀雄さんは「きた出版」の創業者である。もし、北村さんがこのタイトルを目にしたら、あわてて「先生、そんな、やめてください!」と言うに違いない。私の知っている北村さんを一言にするなら、そのような方である。

 私が北村さんに初めてお会いしたのは、宮教組発行の「小・中夏休み学習帳」編集会議の場で。吉岡中(大和町)にいた1967年ではなかったかと思うが、中学校用国語担当として声がかかり、おそるおそる会議場である白萩荘(ホテル白萩)に出て行った時のこと。
 当時は、教員組合が、いわゆる夏・冬休み学習帳をつくり、多くの学校が採用していたように思う。出版は東北教育図書。そこで編集実務を担当していたのが北村秀雄さん。学習帳の編集長は鈴木市郎先生。新米の私は、全体の話が終わった後、前任者が欠席だったので、鈴木先生から説明を受ける。
 その後は北村さんとやりとりをして仕上げるということがつづいた。
 2年後に私は小学校に転任となったが、ほぼ同時ぐらいに中学の学習帳の発行は停止となったように思う。採用が激減したためである。

 勤務地が仙台になったこともあり、学習帳の仕事はなくなっても、北村さんとはその後もいろいろな場でご一緒する機会があった。私が1974年から3年間、組合の教育文化部を担当することになり、急ぎの仕事など、ずいぶん無理なお願いをしつづけたこともある。
 いつか、大村榮先生が、「私は、よく、付属小の近くの小さい書店をのぞくことがあったが、その書店で働くキタさん(北村さん)と話をするようになり、それ以来の付き合いなのだ」と言ったことを記憶している。その話を聞きながら、そう言われれば、(お二人は本当に息が合う!)と思ったものだった。

 1977年9月15日に、「すばる教育研究所設立総会」がもたれた。この「すばる教育研究所」設立には私も少々関りがあるがここではその点にはふれない。大村先生が所長で、所の中心メンバーは大村先生と宮城県教育研究所で一緒だった方々。私から見ると、宮城の教育の“知の集団”。
 総会にあわせて、所報『教育すばる』創刊号が発行された。印刷は東北教育図書。所の会議に時間がとれるときは私ものぞかせていただいたが、そこには北村さんの姿が必ずあった。つまり、『教育すばる』は北村さんの手によって編まれたのだ。
 後日、東北教育図書社長のK さんが仕事を退くことになったとき、北村さんは社を引き継ぐのではなく、独立して「きた出版」をつくった。社名は大村先生の命名だったと記憶する。所報『教育すばる』4号は1978年11月に発行されているが、この4号から発行所は「きた出版」名になった。

 この4号巻末の「へんしゅうしつ」には、「11月5日(日)に予定した第2回総会に間にあわせようと『教育すばる4号』の編集を急いでいる。原稿がこれ以上のびると、その日まで刷りあがらないかも~~と、きた出版はきびしいことをいう。」と書かれている。温厚な北村さんが、所長の大村先生を急かせている場面を想像するとほほえましくなる。
 この4号には、「『国語教育研究』の復刻を終えて」の座談会が載っており、興味深い。出席者は鈴木道太・佐々木正・村田幸造・富田博・宮崎典男・菊地新・大村榮の各氏。この復刻『国語教育研究』は、参加者の一人ひとりが(よくぞ仕上げられた)とその感慨を述べておられ、きた出版最初の大仕事であり、裏方の北村さんは大きな達成感を持たれたことと思う。

 その後、「すばる」の活動は活発で、『すばる双書』などが、きた出版からたてつづけに出された。北村さんにお会いしたある時、「昨夜は原稿を読み始め、気づいたら朝になっていました。よい原稿を読ませていただくのは本当にうれしいです」と言っておられたこともあった。「すばる」の書き手の多くはそろって宮城の教育会を代表する方々であり、原稿の最初の読み手は北村さんだったのだから、「うれしい!」はまちがいないだろうが、徹夜で目を通すのは、仕事に徹する北村さんの編集者としての心意気だ。こうして手にするA5版32ページの会報『教育すばる』は毎号読み手の私たちをゆさぶった。~つづく~( 春 )