mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

八島正秋さんのこと(その2)

 「教育文化」誌88号の裏表紙に、算数実践検討会の案内が載っている。
 その要旨は、「八島さんの長期継続方式実践検討会を開く。第1回は70数名の参加者だった。日時は、1970年9月26日 午後1時30分から。場所は向山小学校。授業内容は2年生の2桁のたし算。助言者は遠山啓さん」。
 9月は県教組役員への立候補は決まっていたと思うが、それとは関係なく、自分の仕事に位置づけている「長期継続方式実践検討会」を予定通りすすめたということになる。
 「八島正秋という人間は?」という問いに答えるとすれば、これがその一つの答えになろう。残念ながら私には、この検討会の記憶はない。おそらく不参加だったのだ。私が八島さんと同じ立場だったら、教師である自分のためになる最高の場であることは頭でわかっていても、立候補を口実に、検討会の厳しい授業者の立場から逃げたに違いない。

 私より長い付き合いのあった、国語サークルの門真隆さんが、追悼集「八島正秋のしごと」のなかで、次のようなことを書いている。
 「『八島さんと民教研』と言うと、私の頭にはいつも同じ光景がうかんでくる。冬の学習会の後のことらしい。その中で八島さんは古ぼけた座卓にむかってすわっている。その前には受付名簿や、箱に入った紙幣や硬貨がある。八島さんと民教研のかかわりは、そういうことだけでないのは自明のことだが、なぜこのことばかりがしつこくうかんでくるのか。食券つくりから受付までやったことも思い出す。八島さんは民教研の面倒でわずらわしい部分をも担ってくれていた。そういうことがうまかったとはとても思えない彼が。そんなことをしても八島さんは出つづけた。~~」と。
 八島さんは、このような姿を民教研に関わる場だけでなく、いろんな場で亡くなるまで見せつづけた。

 教文部担当専従になった八島さんは、その担当のひとつになる「教育文化」誌の巻頭言になる「主張」を多く書きつづけたが、その最初の号が95号(71年4月20日発行)で、「自己主張をこそ」のタイトルで書いている。それが以下の文になる。
 「9年間、子どもが学校にお世話になったけど、それまで、ご自分の意見を述べられた担任にお会いしたことがありません。どの先生も、判で押したように、『学校としては~~』とか、『教科書では~~』という言い方しかなさらないんです。わたしたちは、もっと先生ご自身がどう考えていらっしゃるのかをお聞きしたいのです。~~」
 これは、教研集会に参加した母親の発言である。一母親の発言ではあったが、多くの父母を代表した、教師への批判でもある。私はこれを「あなた方は、口を開けば自主的・創造的な子どもを育てるとか、子どもには自分の思ったこと考えたことを言いなさいとか言っているけど、当の教師が少しも自主性がないのではないか」と言っているように聞いた。
 残念ながら、この問題は認めなければなるまい。

 どこの学校でも、学年内は歩調をそろえてとか、学年統一してとかいうことが、なんの疑いもなしに言われている。しかも、それが、管理職者から言われるだけでなく、進歩的だと言われる教師からさえ聞かれる。
 統一というコトバは美しい。歩調をそろえてというコトバもひびきがいい。(中略)
 教育の自由は、学問の自由、研究の自由によって支えられるべきことは明らかである。してみれば、性急な統一は避けなければならない。まして教育は、多数意見に従うべきだなどというすじあいのものではない。そこではむしろ、頑固とも思えるほどの自己主張がなければならぬ。そして、それを互いに保障しあうところに、ほんとうの統一が生まれる。
 そのとき、はじめて、さきの母親の批判に応えることが可能なのではあるまいか。

 この第1回の「主張」につづいて、「はみだしっ子」「いいわけをしない教師に私はなりたい」「小さな実践をつづけよう」・・・と、主に、教室・子ども・授業を取り上げた「主張」がつづいた。これもまた八島さんだからこその内容で今でも少しも古くなっていない。しかも、書くだけでなく、その広がりのために県内を駆けずり回った。
 その「主張」のなかには、「異常ではないか」というものもあった。それは、
 「宮城県子どもを守る会が主催して、算数の教育講座を開いたら、100名を越す母親たちが集まった。そして、二日間も続けて熱心に勉強していった。しかも、第2回目の講座を企画したら、たちまち100名を越す参加者が集まった。(中略)母親たちが、ほんとうに今の学校教育を信頼できるならば、実は企画は完全に失敗するはずだ。この企画が図にあたったという事実のなかに、今の教育現実の異常さがあるのではないか。」というものだ。書き始めと終わりだけだが、何が「異常ではないか」と言っているかはおわかりいただけるだろう。八島さんの活動は学校外にもおよんでいたのである。

 八島さんが教文担当になった年だったと思うが、「吉田六太郎さんが今年退職なそうだ。それで、岩手の冬の学習会は、六太郎さんが校長をしている盛岡のT小学校を会場にもつという。六太郎さんへの挨拶に行こう」と誘われ、冬の盛岡に八島さん運転で行ったことがある。たしか冬休みの長かった岩手の冬の学習会は、宮城の終わった後だったのだ。
 東北民教研に途中から参加した私には、吉田六太郎さんは既に岩手民教連を代表する顔であった。ちなみに、東北民教研30年史を開くと、第2回水沢集会の報告に事務局として顔を出し、吉田六太郎名で、「講師決定」という次の短い文が載っている。

 内山完造(国際)松丸志摩三(農村)丸岡秀子(婦人)に交渉。松丸さんはおくさんが亡くなり、会は弔電をおくる。平塚行蔵・後藤俊一・ナガイショウゾウ、地図をたよりに東方学会に行き、松岡解子先生の快諾を得、石垣綾子さん宅に向う。ここでは主人の玄関払いにあい、くたびれた体と心をはげまし、雑木林のある耕地を通って斎藤秋男先生宅(練馬区石神井)を探しあて快諾。お茶・菓子の接待を受け歓談。講師決定。万事ととのったと喜び、水沢に帰る。

 水沢集会は1953年。講師依頼のため、東京の自宅を訪ねて頼んであるいたのだ。この短い吉田報告を読むことだけでも、当時は会をつくるのにこんな苦労を重ねてつくりあげていったことが、遅れて参加した私にも響いてくる。それを知っている八島さんは、退職する自校を会場にもつ吉田六太郎さんに直接挨拶したかったのだ。
 吉田さんはたいへん喜んでくれた。その姿を目にしながら、一緒に来てよかったと私も思った。
 帰りは夜になっており、冬の岩手路は宮城のそれとは大きく違っていた。途中から、タイヤのチェーンが切れたらしく車をたたくような音がし出した。「チェーンが切れたんでないか」と言うと、八島さんは「大丈夫だ!」と繰り返し、背を丸くしてそのまま運転をつづけた。私は黙った。そして、喜んで何度も「ありがとう」と言った吉田さんの姿を浮かべていた。築館を過ぎたころから、道路の様子も緊張をほぐしてくれた。

 ついでに、八島さんと2人で冬の学習会会場を探し歩いた情けない思い出を書きおく。
 宮城の冬の学習会への参加も私は途中からの参加者であり、確かではないが、第10回(1966年)ごろからではないかと思う。会場はいつも白萩荘(現在のホテル白萩)だったように思う。記録でみると、1泊2日で、会費300円・宿泊費1000円。これも私には記憶は定かではなく、改装のためだったろうと思うが使用できなくなり、14回から会場は、新しくできたばかりの松島大観荘に移した。初めは宿泊費1300円と安かったが、16回は1500円、17回(1972年)は2000円となり、「大観荘はダメだ。これでは参加者は減っていく。安いところはないか」という声が高まった。
 その声を受けて、八島さんから「安い宿泊場所を探しに行こう」と声がかかった。
それからが大変だった。何しろ安くなければならない。さんざん考えた末に、「自動車練習所の赤門の宿泊施設は安い」ということで、赤門に行った。たしかに安い。でも、見せてもらうと、すべて個室で2段ベッド。話し合いなどできる部屋はない。
諦めて帰ろうとすると、(カモを逃がしては)と思ったか、オーナーが「今は使っていないが、西花苑に宿泊施設があり、すぐ稼働できる。広間もあるしすべて畳の部屋だ。使用していないので、3食1800円でいい」という。2人は1800円に素直に喜んだ。
 案内して見せてもらい、即「西花苑」に決めた。
 しかし、どうだ。そうそううまくいくものではない。当日、夜になって電源が止まった。ヤシの木が2~3本立つ大きな風呂をのぞくと、「寒くて上がれない!」と騒いでいる仲間がいる。そちこちの部屋は、「雪が吹き込んでいる」と座布団までつかって布団にもぐっている。翌日、寒さを我慢しての半日。解散するときには、「少しぐらい宿泊費が高くなってもいい」と参加者は口をそろえて言う。
 かくして、冬の学習会は翌年からまた大観荘にもどった。ーつづくー( 春 )