mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

八島正秋さんのこと(その1)

 八島さんは私より6歳上なのだが、なんと、亡くなってもう35年にもなる。あまりに早すぎた。
 意気地のない言い方になるかもしれないが、今になっても(ここに八島さんが居てくれたら)と思うことが何度もある。
 八島さんと初めて会った時のことははっきりと思い出せない。その時を探ってみるために、八島さんの書いたものなどを読んでみた。次は、八島さんの書いた「教師の自己形成のあゆみ」の一部である。

 ~~鈴木市郎さんのことは、大分前から知ってはいた。雑誌の誌上で名前を見たり、民教研の集会で顔を見たりした。が、直接話をしたことはなかった。東北民教研に顔を出したり、算数教育関係の雑誌などを読んだりはしていたが、サークルに所属したこともない私は、いつも会場の片隅で黙って聞いて、ひとりで帰っていた。雑誌にものを書くようなえらい先生とことばをかわしたりすることは、とてもできなかった。私が初めて鈴木さんとことばを交わしたのは第11次県教研で、1961年の秋のことであった。支部代表で県教研に参加した私は、この年の全国教研に参加することになり、助言者だった鈴木さんにレポート作成の指導を受けたのが、話をした最初だった。
 彼は温厚な人だが、実践や理論には厳しい人だった。全国教研に参加が決まった年の、県冬の学習会にレポート提出を依頼された。「比例の実践はあるが、よくわからないところもあって自信がない」と言うと、「それでいい、よくわからないことは、ぼくらも応援しますよ」というので、私は参加した。(鈴木先生が助けてくれる)、そう思って参加したのだったが、鋭い質問を浴びせたのは鈴木さん自身だった。(約束がちがうではないか)とひそかに思ったが、彼はそんなことにいっこう無頓着のようだった。「応援する」ということばを私は、わからないところもわかったようにしてその場をとりつくろうことと解釈していたのに対し、鈴木さんのは、それと真逆に、わからない点をハッキリさせ、それをみんなで解明することだった。私には驚きだったし苦しかったが、さわやかな気持ちになったことは、今もハッキリ覚えている。~~
                                 (「日本の学力 16 教師」日本標準社発行)

 この時、八島さんは教師生活3年目、勤務校は桃生郡小野小学校であった。
 八島さんの動きは、この時を機により広がっていったようだ。全国教研への参加と前後して、これも鈴木市郎さんの推薦で、県教組が発行していた「夏(冬)休み学習帳」の編集委員になり、算数を担当することになる。
 実は、数年後になるが、私も、「国語の担当者がやめることになったので、夏(冬)休み学習帳の中学校国語の編集委員をやってくれ」との連絡を受け、何もわからないまま安請け合いをしてしまった。この学習帳は宮教組が発行、当時は県内の小中学校のほとんどが使用していたように記憶する。

 編集委員会はホテル白萩の前身白萩荘でもたれた。八島さんとの初めての出会いはここだったと思う。八島さんはもう編集委員会の中心として動いていた。編集長は鈴木市郎さん。初任で何もわからない私は、国語の編集実務のことを鈴木さんから直接指導を受けた。鈴木さんは数学が専門と聞いていたが、どの教科担当者とも対面で話し合っている様子を目にしながら、(このような力をもった教師が県内にいるんだ!)と、大いに驚いた自分が今でも鮮明に残っている。ありがたいことに私の世界が広がる仕事をさせてもらった。

 「組合で学習帳?」と、今ではとても考えられないことであるが、学習指導要領が拘束力を持つようになった1958年以降でも、変わることなく自主編成の学習帳をつくりつづけたということで、力のない私などにとっては大きな学習の場になったのである。とは言うものの、あっという間に世の波に押し流され、編纂を止めざるを得なくはなったのだが・・・。
 1962年に勤務地が仙台になった八島さんは、県数学教育サークル、仙台算数サークル結成の中心となり、高橋金三郎さんの応援をうけながら、仙台算数サークルの中心になって動きつづけた。その流れのなかで、八島さん自身が、八幡小学校で授業実践検討会のための算数の授業(6年生)を公開し、算数教育について広く提案している。

 私が仙台に入った(1969年)とき、当時の県教組相澤教文部長から「仙台に来たのだから、『教育文化』の編集の手伝いを頼む」と言われ、何もわからず参加した編集委員会にも八島さんはいた。
 当時、「教育文化」の編集会議にはいろいろな方が出入りをしていた。週一の編集会議は出入り自由の場になっており、大学の先生たちも入れ代わり現れ、そのほかに他県の方や取材とは関係なく話し合いに興味をもつ記者などまで顔を出すことがあり、私は後々までお世話になる方たちとの出会いの多くが「教育文化」編集会議の場になった。
 月刊の次号編集が主たる仕事でありながら、集まった方々が、それぞれ勝手にしゃべり、時間が来ると散っていくという感じの繰り返しのなかで、32ページの「教育文化」誌は毎月姿を見せつづけた。

 その場のひとりになった私にとって、それまで考えることもしなかった話題で盛り上がる会議は、身を縮めて聞き入ることがほとんどだったが、何がとびだすかわからない編集会議はそれまで得ることのなかった楽しみの場になった。
 八島さんは私とは違っていた。既に宮城で提案されていた「教育実践検討会」算数の授業提案者のホープであっただけでなく、教育全体についての話し合いではいつも座の中心になっていた。
 「教育文化」に関係するようになってから私は、冊子をつくる意味の大きさも感じるようになり、「教育文化」を発刊した菊池鮮さんは、「自分が書きたいから発行した」とよく言っていたが、それが本意だとしても、今考えても宮教組のためにはかり知れないものを残したと思う。
 編集会議を終えると、八島さんと帰る方向が同じなので、免許取りたての車に乗せてもらい、話は車中でもつづくのだった。そのたびに、(お前、まだまだだぞ!)と言われているように感じることもしょっちゅうだった。

 県教組相澤教文部長の後任に八島さんを推すことになった。もちろん、私たちの周りでは誰も異論はなかったから、八島さんも決意せざるを得なかった。1971年から3年間の任期である。
 立候補を決意した八島さんは、組合新聞に、次のような抱負を書いた。

         教室に真実を 職場に自由を

 このたびの役員選挙に立候補を決意するまで、長い間悩みました。この重大な責務を、私ごとき者が果たし得るものかどうか、自問自答を繰り返してきました。
 特に、民主的な教文運動を実りあるものにするためには、自身の教育実践を真剣に問い返してみなければなりませんでした。単なるかけ声や口先だけではなく、日教組が20年の間かかげてきた「平和を守り、真実をつらぬく民主教育の確立」という理想を、教室の子どものなかに、厳然たる事実として創り出してきたのかどうかを、厳しく問い返してみなければなりませんでした。そうでなければ、これからの教文運動を推進することなどは、とてもできない相談だからです。
 家永裁判の第一審判決が出たとき、私は泣きました。うれしくてしようがなかったのです。なにが真実なのか、どう教えることが子どもを本当に幸せにすることなのか、私なりに真剣に取り組んできたつもりでした。自分なりに納得できることを教えてきました。当然圧力がかかりました。しかし、この教育の自由は、到底譲り渡すことのできない教師の権利です。それが、この判決で公然として認められたのです。家永さんの勝利は、私自身にとっても勝利だったのです。
 しかし、家永裁判は、勝った負けたといった次元でとらえるべきではありません。判決にうたいあげられた精神は、私たち日教組の20年来の課題でもあります。そしてそれは、今後も営々として、私たちが職場の中に、「事実」として創りだしていかなければならないものだと思います。
 この重大な仕事に微力ながら、全力を尽くしたいと思います。

 ここで八島さんが取り上げている「家永裁判の第一審判決」は、家永三郎さん(東京教育大学教授)が起こした高校日本史教科書不合格処分取り消しを求める裁判での東京地裁判決(杉本判決)を指す。1970年7月17日、「子どもの学習権を中核とする国民の教育権を憲法26条の保障内容と認めて『国の教育権』を否定」したものである。
 この判決直後になる8月5日からの東北民教研の鳴子集会は、教科研全国集会などとの合同集会だったが、東北民教研史上最大の2,500人の参加者で鳴子の旅館を埋め、3日間の集会はこれまでにない参加者の明るい活気のある集会になったことが思い出される。
 翌年の1971年4月から八島さんは専従として宮教組教文部の仕事を担当することになった。ーつづくー( 春 )