mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

コロナな日々を生きる ~ えっ、顔パンツってなに? ~

 職場でのお昼は、だいたいお弁当か外に食べに行く。先日もMさんと一緒に外に食べに行った。行きぎわに突然「あっ、ちょっと待って。顔パンツ忘れた」と言うので、「何それ?」と返すと、「マスクだよ、マスク」と返して、Mさんはそそくさと、その「顔パンツ」を取りに行った。

 そういう言い方が一般的になっているかはよく知らない。気になってパソコンで「顔パンツ マスク」と入れて検索すると、多くはないが出てくるではないか! 先の清さんのDiary「カタコト」に「同時代人として生きているという連帯感が醸しだす普遍性」とあるが、よもやコロナ禍で生きる同時代性が「マスク」を通じて連帯感を生み出し、「顔パンツ」なる新たな言葉まで創造というわけではないだろうに。

 Mさんは、今やマスクはパンツ同様。身につけていなければ居心地が悪いし、落ち着かないという。パンツと同列にしなくてもと思いつつ、この1年ばかりの間にマスクの存在は確かに大きく変わった。そう思っているうちに、妄想竹(だけ)がにょきにょき伸びはじめてきた。

 街を歩くと、今やマスクをしていない人はほぼ皆無に等しい。マスクをつけていないと不審がられたり、危険視される雰囲気さえ感じることがある。コロナ以前は、マスクをしている方が不審がられたりしたのに・・・。これは、マスクのコペルニクス的転回、いや大勝利ということか?
 さにあらず、マスクは今も以前も必要があってしているにすぎない。日常そのものが変わってしまって、マスクはその変化に対応しただけのこと? コロナが終息したら、元通りみな素顔になる?

 Mさんの「顔パンツ」発言は、小さな波紋を呼び起こす。コロナが落ち着いたとき、人々はマスクをどう感じ、どう扱うのか。もしも、落ち着かない、居心地が悪いにとどまらず、「恥ずかしい」と感じるようになったとしたら、それは明らかにマスクの「顔パンツ」化と言えるかもしれない。(キヨ)