mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

師走にて ヒロシマのうた 思うとき 走りゆくよ わが妄想列車

  前回のdiary のなかで、千葉さんは「ヒロシマのうた」の物語を根底で支え、突き動かしているのは、小さいミーちゃん(ヒロ子ちゃん)の命を必死に守ろうとして亡くなったお母さんではないかと語った。改めてその視点から作品を見なおすと、個々の表現の意味するところが鮮明にみえてくる気がした。さすが千葉さんだと思う一方で、待てよ待てよというアマノジャク的精神が私を呼び止める。本当にそうだろうか? そうして勝手気ままな、そして自由な私の妄想列車が走り出した。

 赤ん坊やこどもという存在は不思議だ。町なかに一人ポツンと立っていれば、「大丈夫、お母さんは?」などと声をかけたくなる。泣いていれば「どうしたの?」と声をかけ、場合によってはその子に寄り添ったりもする。赤ん坊や子どもは、そこにいるだけで人を惹きつける。それは、そもそも子どもが無力で、一人では生きていけないからなのかもしれない。でも、その無力が人を惹きつけるとしたら、それはまた一つの存在論的能力ではないだろうか。無力であるがゆえに《私を守れ、守ってくれ》と訴えかける存在として。子どもは守られるだけの受動的存在ではないのではないか。そんな想念が湧いてきて、「ヒロシマのうた」でのミーちゃん(ヒロ子ちゃん)とお母さんの関係が気になり始めた。

 作品は確かに、瀕死の重傷を負いながらも「ミーちゃん、ミーちゃん、あんた、ミ子ちゃんよねえ。」と声をかけ顔や頭を撫でながら、小さな命のミーちゃん(ヒロ子ちゃん)を必死に守ろうとする母親の姿が描かれている。でも、アマノジャク的精神でこの作品を眺めてみると、今までは気にもかけなかった次の箇所に目がとまった。

「ミーちゃん、ミーちゃん。」
と呼ぶのをやめたかと思うと、お母さんは、こんこんとねむりこんでしまいました。、赤んぼうが泣き始めました。、また、お母さんが呼ぶ。お母さんは、だんだん気が遠くなっていくようでした。

 母親が眠り込む--赤んぼうが泣き始める。赤んぼうが泣き始める--母親が赤んぼうの名を呼ぶ。この親子の呼応関係をつなぐ「と」が。ここには、守られるべき存在としての「赤んぼう」だけではない、もう一つの赤んぼうの姿が見えてこないだろうか。瀕死の重傷を負い、すでに死の淵に立ち、死の世界へと引きずり込まれようとしている母親に、赤んぼうが母親にこの世界に留まれ、そして「私を守れ、守ってくれ」と呼びかけてやまない姿が。残念ながら母親は、その赤ん坊の望みに応えることができずに亡くなっていく。そして赤ん坊は、母親をこの共に生きる世界に引き留めることができなかったという無念さと、自らの存在そのものの無力さという、二重の思いのなかで《それまでにない大声で泣き続ける》のだった。そんなことを「ヒロシマのうた」の学習会を通して、ひとり想像した。
 一先ず、今年の妄想はこのへんで。続きは、年明けの学習会でと思っている。

 ちなみに年明けの学習会は、1月7日(木)18時半~ 研究センター です。
 もう「ヒロシマのうた」の授業は終わってしまったという人も遠慮せず、ぜひご参加ください。お待ちしております。
 みなさん、よいお年をお迎えください。そして来年もよろしくお願いします。(キヨ)