mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

『ヒロシマのうた』の学習会を振り返って思う

 11月末の「こくご講座」、続く「国語なやんでるた~る」では3回にわたり、ずっと「ヒロシマのうた」についての学習会が行われてきた。それでも、まだ終わりそうにない。年明け後も何回かは、「ヒロシマのうた」についての学習会が続きそうだ。決して参加人数が多いわけではない。ごく少数の物好きな連中なのだと言われれば、そうかもしれないとも思う。でも、それ以上に「ヒロシマのうた」という作品が持つ力が、そうさせていると感じる。

 6年生教材の「ヒロシマのうた」は、子どもたちにとってかなりの分量ある読み物教材だ。しかも物語は、広島の原爆投下後の被爆地から始まる。決して明るい楽しい物語とは言えない。死にゆく母の腕にひしと抱かれた赤ん坊の命を引き受ける水兵、戦禍のなかでその赤ん坊を預かる夫婦(育ての母)、その人たちを中心に一人の少女の成長と自立が、彼女をやさしく見守り育む人たちの姿とともに描かれていく。この間の学習会の報告とは到底言えないが、参加してきた一人として何を感じ考え、思ったのかについてちょっと書いておく。

 11月の「こくご講座」のときのことだった。この作品の主題と展開をどうとらえたらいいのかということに関わって、千葉さんが次のようなことを語った。

 作品をとらえる時に、私である稲毛さんを突き動かしたものは何か。義理の育てのお母さんは、ヒロ子ちゃんを一度手放そうとしたとき、ヒロ子ちゃんを必死に守ろうとした実の母の話を聞いて思いとどまった。私はヒロ子を絶対に育てますと言っている。そしてヒロ子ちゃん自身は、戦禍の中でのお母さんの話を私から聞いて、私お母さんに似ていますかと言っている。そうしてみてくると、亡くなってここにはいないお母さんが、実はみんなを突き動かしているということが見えてくるような気がする。戦争はすべてを破壊してしまうが、その中でわずかに生き残った小さな命、その命を必死に守り抜こうとしたお母さんの思いが、私(稲毛さん)の心を動かし、義理の育てのお母さんを動かし、そしてヒロ子ちゃんの心も動かしながら、ずっとこの物語の中に流れているのではないか、と。

 その観点から作品を改めてみて見ると、いろいろなことが気になってくる。例えば、水兵の私(稲毛さん)が、亡くなったお母さんの腕から赤ちゃん(ミーちゃん、ミ子ちゃん、ヒロ子ちゃん)を「だき取る」場面には、その行為の表現として「うばい取る」「もぎ取る」という表現も出てくる。その表現は、どんな稲毛さんの心情なり思いを表わしていると言えるだろうか。あるいは、同じ箇所に「固くだきしめた冷たいお母さんの手の力、わたしは今もまざまざと思い出すことができます」との表現も出てくる。「冷たいお母さんの手」とは、すなわちすでにお母さんは死んでいることを示している。だとしたら、死んでいるにもかかわらず「手の力」とは何か、何を意味しているのか。そんなことも気になり始めた。お母さんと稲毛さんの思いが、この場面のなかで強烈に語られている。

 そうしているうちに、一つの詩を思い出した。ああ、この詩は「ヒロシマのうた」に似ている、根底で共鳴していると。それは、栗原貞子さんの「生ましめんかな」だ。

生ましめんかな
  -原子爆弾秘話-

こわれたビルディングの地下室の夜だった。
原子爆弾の負傷者たちは
ローソク1本ない暗い地下室を
うずめて、いっぱいだった。
生ぐさい血の匂い、死臭。
汗くさい人いきれ、うめきごえ
その中から不思議な声が聞こえて来た。
「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。
この地獄の底のような地下室で
今、若い女が産気づいているのだ。

マッチ1本ないくらがりで
どうしたらいいのだろう
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です。私が生ませましょう」
と言ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で
新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも

 「生ましめんかな」は、戦後すぐ(1946年)の作である。副題に「原子爆弾秘話」と付されたこの詩は、被爆地広島で実際にあった話がもとになっている。中国新聞の記事によると、近所の人からこの話を聞いた作者の栗原貞子さんは、「地下室の出来事がまるで宗教画のように感じられ、一息にこの詩を書きつけた」そうだ。「ヒロシマのうた」の作者の今西祐行さんと栗原さん、お二人の間に接点や交流はなかったのだろうか、そんなこともふと考えたくなってしまう。話はどんどん広がって、自分の中であれやこれやと想像してしまいそうだ。

 最後に報告を一つ。実は、この一連の学習会の流れは、年明けの新春講演会にもつながっていく予定だった。新春講演会では、長崎で被爆され、ここ宮城で被爆者援護と核兵器禁止の活動を長らくされてきた日本被団協の田中煕巳さんを講師にお招きし、あの日きのこ雲の下で何が起きたのか、そして今回の禁止条約の意義などをご自身の体験も交えながら話してもらい、核兵器のない世界への展望についてともに考え合いたいと思っていた。しかし、この年末のコロナ感染拡大の状況を考えると、今回の開催は難しいと判断し、延期することにした。大変残念だが、コロナの感染が終息した際に改めて機会をつくりたいと思っている。(キヨ)

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