mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

清眞人さんの新刊書紹介 ~『高橋和巳論』~

  毎回、読み応えのある文章をdiaryに寄せてくれる清さん。ときに歯が立たず何回も読みなおすこともある。専門の哲学はもちろん、文学に関わっての著書も出されている。2010年に思潮社から『三島由紀夫におけるニーチェ』を、2016年には藤原書店から『ドストエフスキーキリスト教』を、そして、この3月末には『高橋和巳論 宗教と文学の格闘的契り』を出版した。

 恥ずかしながら、清さんが今回論じた高橋和巳は名前を知る程度。なお「高橋和巳」をdiaryの検索欄で引くと、清さんの「西からの風」の(1)(9)(13)(18)で、また春さんの「師の目にも涙、に想う」でも登場する。

 5月2日の毎日新聞「今週の本棚」で、元外務省主任分析官で作家の佐藤優さんが書評を寄せているので、紹介することにした。本書は、500ページを超える大著であるが、ステイ・ホームの今を活かし、思い切って読んでみてはいかがだろうか。(キヨ)

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 全共闘運動が盛んだった時期に大学生や高校生は高橋和巳の小説を熱中して読んだ。また、高橋はバリケードでキャンパスを封鎖した学生側に与(くみ)して、京都大学文学部助教授を辞した。高橋の小説では、思想と行動を一致させようとする人物が破滅していく姿が描かれていた。著者自身も破滅型の人生を歩んだ。清(きよし)眞人氏は、テキストを徹底的に分析することを通じて、高橋を突き動かしていた力が「捨子性」にあることを見いだした。〈『邪宗門』でいえば、《捨子性》とは、その人間が「宗教的感情の基礎」となる二大柱の一方、「自らに生命を与え、外気に触れながらもただ泣きわめくことしか知らぬ自分を育ててくれた者」、すなわち《母》に対する「感情」を欠落するということにほかならない(なおもう一方は、「死霊への恐怖」とされる)〉という指摘が事柄の本質を突いている。

 新型コロナウイルス禍に 直面したわれわれは日々「死霊への恐怖」に怯えている。このような状況で必要なのは母子の間に見られる愛のリアリティーを回復することだ。そのためにも高橋の観念小説を読み直すことが必要と思う。
     (5月2日「毎日新聞」 佐藤優・作家、元外務省主任分析官)

西からの風27 ~私の遊歩手帖11~

ゴッホの手紙』とやっと出会う4

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 小林秀雄の『ゴッホの手紙』への寄り道遊歩の報告をいささか記そう。

 同書は、次の彼自身のゴッホ経験、ある日新聞社主催の「泰西名画展覧会」に出かけ、ゴッホが自殺直前に描いたといわれる「「カラスの群れ飛ぶ麦畑」の精巧な複製に出会い、その時、《彼の絵を見ることは彼によって見られることである》という経験をしてしまったという報告から始まる。

「むしろ、僕は、ある一つの巨(おお)きな眼に見据えられ、動けずにいた」[1]

 ここでいう「一つの巨きな眼」については、同書でこう説明もしている。その一節は、彼のゴッホへの関わり方の特質を端的に示すものでもある。いわく、

 ――自分にとっては彼の絵は「非常に精神的な絵」、さらにいえば「絵というよりも精神」として「感じられる」と[2]、それというのも、自分が彼に興味を抱いたのは何よりも「彼の書簡集」を通して、いいかえれば彼の「執拗を極めた自己分析の記録」に触れることによってであったからだ、と[3]。そして、ゴッホのおこなった「自己分析」の特質を「現代の心理学的風潮」(おそらく精神分析学を指すであろう、清)の為すそれとは根本的に異なり、彼にあっては、分析対象となる「外部化」し得る自我はことごとく棄てられるのであり、彼が求めるのはいうならば自我を得ることではなくして、どのようにしても対象化=「外部化」し得ぬ「精神」に行き着くことであったとし、くだんの「一つの巨きな眼」とはこの彼の「精神」にほかならなかったとする。

 この点で、わざわざ、彼はこう断ってもいる。

 ――ゴッホを「表現主義絵画の先駆」とみなすのは「一般に承認されている意見」であるが、「そういう見方」は「あまり私の興味を惹きませぬ」[4]、絵画の美学的意識の歴史的変遷と関連づけてゴッホを論ずることは自分の関心の圏外にある、と。

 だが、私からすれば、別に美術史的うんちくを傾けよという意味ではなくて、その画家の絵が自分に与えた美的印象と、その画家自身がどういう創作意識をもって絵に取り組んでいたかということについての強い関心、この二つをあらためて自分のゴッホ論のなかで突き合わせ、画家としてのゴッホが描き出そうとしたいわば世界感覚、世界感情の在りようの特質を浮かび上がらせる批評の作業、これは「ゴッホの手紙」を論する際に不可欠となる作業であるはずである。

 この点で、私には小林の同書の視点――ゴッホの書簡集を小林いうところの「精神」の開示を示す「執拗を極めた自己分析の記録」としてだけ読むという――はあまりに文学主義的だと映り、それは次の危険に迷い込んでいると思われる。すなわち、初発に小林自身が抱いたゴッホに対する直観を思索の過程で検証し直すという過程、つまり対象相手を本当に自分は理解し得ているのかという問いに導かれた事あらためての対象相手への探索(対話)が同時に初発の直観への自己検証(対話)ともなるという両面的な対話過程、これが欠け、ひたすらに相手を自分の直観のなかにくるみ込む評論者のナルシシズムが遂に勝ちを占める、こうした危険に。

 あらゆる思索行為の出発点は、「これこそが相手・対象の孕む問題核心である!」との強い直観力である。その思い込みがなければ、いかなる思索も自前の思索として強力に駆動されるはずがない。だが思索するとは、まずそこから出発して、しかし、この自己の為した直観の是非をまさに相手・対象との対話を通して執拗に検証することである。核心を握ったはずのことが実はまさにその反対で、核心を取り逃がす決定的な誤りであったという場合、実はそれが多々あるということ、この自己懐疑の契機を、しかし文学主義的思い上がりが無化する危険、これが問題である。

 実は、この生きた実例に出会ったということが、私の小林への寄り道遊歩の収穫であった。
 結論が先に来てしまった。以下、いささかその問題を小林に即してメモしておきたい。

 まず私の側の小林批判の中心点を一言でいえばこうだ。
 第一点。くだんの「ある一つの巨きな眼」を小林は、ゴッホを自殺へと追い詰める裁きの眼、つまりかの「執拗を極めた自己分析」を駆動させ司る裁判官の苛烈な暗き眼、永遠なる罰を下し、被告人を死に追い遣る暗き眼として捉えている。
 だが私にいわせれば、そう捉えることは、ゴッホがあれほど敬愛したイエス七転八倒する人間の苦悩の只中に「慰安」をこそもたらしてくれる「無限性」の神たるイエス、彼を裁きの神たるヤハウエと取り違えることである。その眼の「巨(おお)きさ」がゴッホにとっては「無限性・永遠」を意味し、かつその「無限性・永遠」とは「汎神論」のそれだということ、それはまさに色彩の多様性と光性を塗りつぶす暗黒な闇夜の眼であるどころか、反対に光の眼であり万物に色彩を取り戻させる太陽の眼であること、この肝心な点を小林は取り落とす。

 第二点。小林は、色彩に関するゴッホの思想を論ずるにあたって、まず彼の作品「馬鈴薯を食う人々」の基調となる暗褐色について記した次の手紙(No.405)の一節を引いている。ゴッホはこの色を採用したことについてこう書く[5]

色は、もちろん、掘りたての泥だらけの見事な馬鈴薯の色だ。こういう仕事をしながら、ミレーの百姓についてのあの言葉、彼の百姓は、種の蒔かれる畠の泥で描かれたようだ、という言葉が、いよいよ正しいと考えた。屋内であろうと野外であろうと、働く百姓たちを見ている時は、僕はわれ知らず、絶えず、この言葉を思い出していた。  

 また続けてこうも書く。いうならば、ミレーは彼が彼の世界の色とした馬鈴薯色で雪景色を描くであろうし、人々はその馬鈴薯色を雪原の白と感じるだろうと。

僕は確信しているが、ミレーとかドービニイとかコローという人たちに、白を使わず雪景色を描いてくれと言ったら、彼らはきっと描くだろう。しかも画面の雪は、まさしく白く見えるだろう。

  ところで、小林は上の一節を受けてこう続ける。――「これが、早くからゴッホの信じた色彩の観念である。《馬鈴薯を食う人々》で現わしたかったものは、『一つの真面目な思想』なのだと彼は言う。思想が色を決定するのである。音調が音楽家の個性によって定まってしまうように、色調は画家の内的なものの命ずるように構成される」と[6]

 さすが、小林である。彼は印象主義ゴッホ表現主義が決定的にのりこえる地点、まさに「思想が色を決定する」という核心を見事に捉えた。

 とはいえ、彼は次の点を捉え損ねている。すなわち、ゴッホの最終的な表現主義的色彩論は、晩期において、まさにアルルの太陽の光を浴びた、生命力に溢れかえる多彩な色彩の交響楽としてくりひろげられる風景、その風景に現出する透明で明るい光に満ちた「幸福」な、いうならば「汎神論的無限性」を享受することによってこそ、決定的に開花するという点を。

 敢えて、私は「捉え損ねている」と評したい。小林とて、ゴッホにおけるアルル体験の意義について言及しないわけではない。だが、彼の理解はこのアルル経験の決定的性格を浮き彫りにするところまでには至らない。私はこう言いたい。彼のゴッホ論は作品「馬鈴薯を食う人々」を核心に据えることによって、ゴッホが真にゴッホとなるのはこの作品を超える、ただアルルの風景だけが彼に与えることができた「汎神論的幸福感・救済感情」を梃子にすることによってである、と。かつての絵「馬鈴薯を食う人々」の画面を覆おういわば世界色としての馬鈴薯色はアルルの洗礼を浴びた晩期ゴッホにとってはもはや彼の世界色、小林的にいえば彼の「思想」色ではないのだ。

 ここで、ミレーに関するゴッホの言葉を一つだけ引いておこう。

ミレーの種まきの方は灰色で色がない。(中略)ところで種まく農夫を色では描けないものだろうか、(中略)無論、可能だ。(中略)ではやり給え、(中略)さあ、やってみよう、(中略)それでもよい絵が描けるだろうか。でも、勇気を出そう、そして希望を失うまい[7]

 しかしながら、小林の視点からは、かかるゴッホの「勇気」は自殺に追い詰められたゴッホの一種の強迫観念となった「忘我」欲望の強がりにしか過ぎないのである。小林はこう言う。――「アルルの太陽も青い空も燃える大地も、ドレンテ(オランダでの居住地、清)の百姓画家の精神を変えることができなかった」[8]。「アルルの光と色との裡に、幸福があり陶酔があったが、それは画家のものというより、むしろ戦い(己自身との、「執拗なる自己分析」という、清)に駆り出された兵卒を時折りみまう忘我のごとく脅迫されたものであった」[9]

 まさに私と正反対の視点、これが小林の視点なのだ。

 なお読者には、ここで私が前号で紹介したゴッホのベルナール宛の第八信に記されたアルルの草原をスケッチしていたときに見物に立ち寄った或る兵卒とのやり取りを思い出してほしい。その時、その兵卒は、草原の大洋の如き風景のなかに、それに包まれている人間の姿を挿入するゴッホの絵を見て、草原よりももっと美しいと述べ、それを聞いてゴッホはその兵卒の観点を自分よりもいっそう「芸術家」的だと賞賛したのであった。つまり、ゴッホは、まさに「芸術家」の使命を次の媒介者的役割の遂行のなかに見ていたのであった。すなわち、風景が体現する「汎神論的幸福感と救済感情」こそを苦海を生きる人間たちの「慰安」へと媒介せんとするイエスの思想と実践(まさに「芸術家」としてのイエスの)、それを学び模倣し、まさに「イエスの如く生きる」ことを己の信条とすることを。

 だが、小林はこの文脈をまるで捉えていない。

 もう一例を引こう。小林は、ゴッホの自殺について論じる際に、死の前年、ゴッホが精神病治療のために入院していたサン・レイ病院の「鉄格子越しに」熟れた麦畑を眺めながら書いた手紙の一節、すなわち、「純金の光を漲らす太陽の下に、白昼、死はおのれの道を進んで行く」との一節、これを一年後の自殺を予言するものとして引用し、こう述べている[10]

彼は、「自然という偉大な本」が、死の影は、生の輝きの至る処に現れて、「ほとんど微笑している」と語るのを聞いた。この作画動機は、彼の後期の絵の明るい透明な色調の持つ、言うに言われぬ静けさに繋がるように思われる。再び、夏は、オーヴェルの野にめぐって来た。「これを描いている僕の気持ちの静けさは、どうやらあまりに大きすぎるようだ」と彼は母に書く。彼は大発作後の平静期が終わりに近付いていることを良く知っている。

 私の「汎神論的幸福感と救済感情」という視点に立てば、上の一節は文字通り、それを指し語るものである。この視点を直に己の救済思想の核心に据える仏教の言い方を援用すれば、こうなろう。道元の『正法眼蔵』のなかにこうある。それは汎神論的無限性の観点に立てば生と死は絶対的循環の回路のうちに捉えられるが故に生死の区別は無意味化するとの主張である。 

生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきありのちあり、かかるがゆえに仏法のなかには、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、またさきありのちあり、これによりて滅すなはち不滅といふ。
(生から死へと移ると発想することは誤りである。生は一つの時間の次元であって、その前と後の次元が既に前提されている。だから仏法の見地からすれば、生は同時に生あらざるものである。滅も一つの時間の次元であって、その前と後の次元がある。だから滅はいいかえれば不滅なのだ。――清による現代語訳)。

  私見によれば、明らかにゴッホは汎神論的宇宙観が呼吸するこうした生死観、すなわち、宇宙の体現する生死の永遠なる絶対的な循環性が示す生命美の偉大なる景観に触れ、そこに湧きおこる法悦感によって生死の区別に固執する我の意識を忘れ去るならば、これまであれほど苦しんだ死の不安も生の苦痛も消滅するはずだという生死観、この生死観を彼流にここで語っているのだ。「死の影」は、今や大洋の如き熟れた夏の麦畑の美に法悦する自分にとっては「生の輝きの至る処」に随伴する、必須の「微笑」に変貌した、と。

 とはいえ、小林は、この一節を「自殺への予感」という文脈で解釈し、私がくりかえし指摘してきた「汎神論的幸福感と救済感情」という問題の環も、また前号で縷々示したゴッホの仏教への明確な言及も、それにこそ関わっての日本の浮世絵の美学へのゴッホの関心の切実さも一切取り上げることがなく、ひたすらにゴッホの絵を支配するのは《ゴッホを自殺に追い詰める苦悩=「一つの巨きな眼」》という自分の初発の直観に固執するだけなのだ。

 この寄り道小報告では、紙数の関係で勢い論述の仕方は「結論」優先主義にならざるを得ない。実は「さすが小林!」と言いたくなる箇所や、私の言う「汎神論的幸福感と救済感情」という概念規定に実質的に重なりかける記述も取り出せる。たとえば、彼はこう指摘する。

彼には自然とは不安定な色彩の運動ではなく、根源的な不思議な力で語りかける確固たる性格なのであり、人間も、この力との直接的な不断の交渉によってのみ、本当の性格を得ると彼は信じてきた[11]

 とはいえ、上の節にいう、人間に「本当の性格」を与えることになる自然力との「直接的な不断の交渉」は、小林の場合常にあの絵「馬鈴薯を食う人々」が代表するオランダ時代におけるそれに結局は引き戻され、アルルにおける「汎神論」的「交渉」はゴッホゴッホとして定義する決定的なテーマとなることはないのである。何度もいうが。

 最後に、小林を支配している「ゴッホ自殺念慮に取り憑かれた男であった」との思い込み問題に触れておこう。

 実はつい最近のことなのではあるが、ゴッホ自殺説に対する強力な疑義、彼は自殺したのではなく村の不良によって射殺されたのだという他殺説が登場している。ゴッホの晩年を主題にした最近話題の映画『永遠の門』は他殺説に立ってゴッホの死を描いた。いまのところゴッホ美術館は従来の自殺説を事実とみなしているが、この他殺説を展開する本は幾冊も出ている。2011年に刊行されたスティーブン・ネイフとグレゴリー・ホワイト=スミスとの共著による『ファン・ゴッホの生涯』はその決定的な嚆矢となったと評価されているという。また、この書を裏付けとして、2016年にフランスでマリアンヌ・ジェグレの小説『殺されたゴッホ』が出版された。

 なぜ、この他殺説が有力なそれなりに説得力ある推測として登場するに至ったかをこのマリアンヌの小説の幾つかのシーンを紹介することで示そう。

――1980年7月27日、夕食に降りてこないゴッホを心配して宿主のラヴーが部屋に上がってみると、ゴッホはベッドで身を丸めている。しかも上着に血が滲んでいた。ラヴ―が仰天して「どうした」と声をかけると、ゴッホは「畑で自分を傷つけました。医者を呼んでくれ」と答えたという。ラヴ―はちょうど避暑のために別荘暮らしをしていた産婦人科医マズリを呼び寄せ、すぐ後にゴッホの精神的治療の主治医を務めていたガシェも駆けつける。ピストルで撃った弾の小さな弾痕があり、弾は胎内に留まったままで、摘出が急がれるが二人の医師は外科の技術を持たない。ガシェが「自殺を図るなんて」と口にすると、マズリはこう反論する。小説はその時の彼の反論をこう書く。

 ガシェは驚き、ますます不安顔になった。「しかし、自分でやったと本人が言ってるし」と言いかけると、マズリがそれを遮った。⁄「先生もご存じでしょう。自殺ならまず頭を撃ちます。腹を撃ったりしない」(中略)死のうとする者が腹を撃つというのは筋が通りません」⁄「心臓を狙ったが、弾はそれたという可能性は」⁄「あの患者は右利きですか? 左利きですか?」⁄「ああそうです右利きです。絵筆を右手で持っていました。それが何か?」⁄マズリは右手を左のほうにもっていき、人差し指と中指を自分の左の脇腹に向けてみせた」。「先生もやってみてくだざい。こんな格好で引き金がひけると思いますか?(中略)それから、こんなに近くで撃ったなら上着にもシャツにも焦げ跡がるはずですが、それがありません。そもそもこの距離から撃ったら弾は貫通するはずです」。[12]

 次のシーンも書かれる。警官がやってきて瀕死のゴッホに尋ねる。

 「ピストルはどこで手に入れました?」と。(中略)「誰のせいでもありません」とかすれ声で言った。そしてまた眼を閉じ、ぐったりと枕に頭を預けた。(中略)「ポントワーズの鉄砲商に行ったかもしれませんね」⁄「そりゃないでしょう」とラヴ―が言った。「ポントワーズまでは何キロもあるし、行ったんなら誰かが見たはずですよ」⁄「しかしそれでは説明が付きません。この村の銃の所持者は限られていますから。(後略)[13]

  もう一つ次の場面もある。パリから駆けつけた弟テオのいぶかしむ気持ちがこう書かれる。

フィンセントはピストルなどもっていない。一度も手にしたことがない。それ急にどこから現れたのか、誰か教えてくれ! (中略) それに・・・・・・自分を撃ったというのも納得できない。最近はすべてがいいほうに向かっていたし、兄は自分の絵に自信を取り戻していた。だから自殺など考えられない。だがこうなったら。兄を良く知らない人や病人としてしか思っていない連中はほら見たことかと言うだろう[14]

 そして葬儀に来る弔問客を迎えるゴッホの代わりにと、またゴッホを送り出す花飾りにと、ベルナール ――ゴッホの書簡集において弟テオに次ぐ信頼すべき文通の相手であった―― がゴッホの宿泊部屋をつい数日前までゴッホがこの地で描き続けていた遺留の作品群で飾りおえた瞬間の様子がこう書かれる。

絵を順にかけ、後ろに下がって出来栄えを眺めた。すると部屋が黄金に輝いて見えたので驚いた。白い壁が向日葵の力強い黄色を受けて光っている。そしてその黄色こそ、フィンセントが人生のすべてを賭けたものだったとベルナールは知っている[15]

 ここで最後に、小林秀雄について一言しておこう。彼の知ることのなかったことは、まさにベルナールが知る、このことである、と。小林はゴッホのアルルでの絵を、かの「カラスの群れ飛ぶ麦畑」一枚だけを残してすべて彼の視界から追い出す。ベルナールもテオもそのようなことはしない。彼らがすることは、それをもまたアルルの色である「黄色」のなかへと取り込むことである。何故なら、「汎神論」的な色彩の宇宙にとって黒はそのかけがえのない一契機、「生命」の光に随伴する「死の微笑」だからだ。くだんの小説はテオにこう言わせている。

カラスの群れはあの絵に欠かせない存在であり、風景と一体になっている。あの黒があるから全体が生きている。あの絵を満たす黄金と均衡をとり、それを引き立てているのは黒いカラスだ[16]

 しかも次の問題がある。それは、やはりゴッホの死は他殺ではなく自殺によるものだとしても、まさにゴッホゴッホたらしめた彼の晩期の作品の放つ印象と、それを支えた彼の「無限性と慰安」の思想、ならびに自己の抱えた精神病理の根底を「修道僧的(まさに無限性のなかの慰安を希求してやまない、清)でもあり画家的でもあるというような二重人格的要素」に見る彼の自己診断(参照、私の遊歩手帖8)は、明らかに彼を自殺へと決定づけるものではなく、逆に、最終的に自殺衝動からの解放を方向づけるものであり、たとえ自殺が事実であったとしても、それはほとんど衝動的な躓きであり、彼はこの衝動からの解放を得る十分なる可能性を育て得たと解釈すべきである、という問題が。

 *付言 この小説についてもう一点つけ加えておこう。ゴーギャンゴッホとのかの諍いと耳切の一件に関しても、同小説はこの事件に関する唯一の証言といい得るゴーギャンの手記を鵜呑みにはしていない。ゴッホゴーギャンに剃刀を開いて躍りかかったりはせず、ただ彼に道で追いすがり食らいつくように見つめたあと、その眼差しを暴行に出る徴と誤解し身構えるゴーギャンの様子に出会うや、或る新聞の三面記事の「殺人鬼、犯行後に逃亡す」という見出しを切り抜いたものをあたかも彼の立ち去りをなじる言の葉の如く彼の手に握らせ、背を翻して夜の雪道を去っただけなのである。また、ゴッホがその後自分の片耳をそぎ落としたというのは、彼がゴーギャの絵画思想に従って試みた己の観念と想像力に基づき或る総合的世界を構築する絵、具体的にはダンスホールに集う人々を一個の総合的世界として描出しようとする絵、その習作から聞こえてくる幻聴――ゴーギャンを失えばこの絵の完成も、つまりは画家としての飛躍も失うことになるぞ、という――を己から遮断するためであったとされるのだ[17]。他方、小林秀雄は、《ゴーギャン殺害の挙‐自裁による耳切‐自殺による最終決裁》というストーリーをいわば不動の仮説にしている。(清眞人)

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[1] 小林秀雄ゴッホの手紙』角川文庫、改版、1980年、6頁。
[2] 同前、176頁。
[3] 同前、175頁。
[4] 同前、175頁。
[5] 小林秀雄ゴッホの手紙』55~56頁。
[6] 同前、57頁。
[7]ゴッホの手紙 中』、114頁。
[8] 小林秀雄ゴッホの手紙』75頁。
[9] 同前、77頁。
[10] 同前、158頁。
[11] 同前、60頁。
[12] マリアンヌ・ジェグレ『殺されたゴッホ』橘明美・臼井美子訳、小学館文庫、
  2017年、396~397頁。
[13] 同前、403~404頁。
[14] 同前、416~417頁。
[15] 同前、425頁。
[16] 同前、415頁。
[17] 同前、141~142、145~147、150頁。

季節のたより51 ケヤキ

 四季をとおして美しい樹、 ケヤキは 「校庭に立つ先生」

 5月の若葉が美しい季節になりました。かつてこどもたちと過ごした学校の校庭に、数本のケヤキの木が立っていました。生活科の時間には、低学年のこどもたちと校庭のまわりに咲く草花を探してよく散歩しました。ケヤキの下まで来ると、見上げて、みんなで「け、や、き、さーん」と大きな声でよびかけると、その声に答えるかのように、サワサワと木の葉がゆれました。こどもたちは大喜び。開いたばかりの若葉が日の光を浴びてキラキラ光っていました。

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 5月初旬、芽吹き始めたケヤキ。ニレ科で日本を代表する広葉樹のひとつ。
「けやき」の名は「けやけき」(目立つ、ひときわ美しい)が由来。 仙台市野草園で)

 今、世界はこれまで体験したことのないできごとの渦中にあります。新型コロナという未知のウイルスに直面し人間の生命が危険にさらされています。
 コロナウイルスの根絶は難しく、ほかの感染症と同じように、人とウイルスとの共存の道をたどることになるというのが専門家の見解です。当面は人間のいのちをどう守りぬくか、医療の専門家の人たちの必死の努力にお願いするしかありません。一方で、私たちはそれぞれの立場で何ができるのか、未知の出来事に直面して想像力を働かせて行動していくことが求められています。

 これからの教育も、今のままでいいのか、教育の在り方も学ぶ内容も根本から問われているように思います。こんな時に思い起こされるのは、検定をとおりながらほとんど採択されることなく消えてしまった生活科の教科書「どうして そうなの」(1年)、「ほんとうは どうなの」(2年)(現代美術社)のことです。

 先生方にこの教科書を紹介したパンフレットには、こんなことばがのっています。

「先例のない時代」を生きていく子どもたちへ ・・・・・・
教育環境をすっかり こわしてしまった大人が、償いの気持ちをこめてつくった 
「自分で考える力」をつける生活科の教科書

 「先例のない時代」とは、まさに今のような時代を指しているのではないでしょうか。

 この教科書の編集者は、当時、「図工」や「美術」の教科書を創っていた現代美術社・社長の太田弘氏です。「図工」と「美術」の教科書はまるで美術書のような本で、背表紙は職人の手による総クロス張り、鑑賞のための画家の絵は画集のような印刷です。「こどもが初めて出会う教科書だからこそ最高のものを手渡したい」というのが太田氏の編集者としての理念でした。

 「生活科」の教科書も異色の編集で絵本のような本です。その内容は、自然のなかでさまざまな生きものと共に、人がどんなふうに生きてきたかを学んで自分の考えを深めようとするもの。使い終わったら捨てられる本ではなく、いつまでも手元に置いて、ときおり開いてみたくなるような本をめざしていました。

 この教科書を使ったら、使わなかった子とここが違ってくるというものをどう盛り込むか、編集会議での議論と教科書採択の経過については、太田氏と共に教科書づくりの中心となった春日辰夫さんが「短命だった教科書づくりの記」(「センターつうしん別冊・こども・教育・文化 第16号」)にまとめていますので、今でも読むことができます。

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   初夏のケヤキの若葉。日に日に色合いを変えて、緑が濃くなっていきます。

 「ほんとうは どうなの」(2年)の表紙をひらくと、目にとびこんでくるのが、ケヤキです。最初は冬の姿と初夏の姿、あとのページには夏と秋の姿がならんでいます。さりげなく、ケヤキの四季をみつめてみようとよびかけています。

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「ほんとうは  どうなの」48ページと    「ほんとうは  どうなの」表紙と
  49ページの「木とみずのたび」の内容    見開きになる1ページの内容

 ケヤキがとりあげられているのは、ケヤキについてくわしく知ってもらうためではありません。身近にあってあまり意識することのない樹木と向き合ってみたら、どんなことが見えてくるかを考えてみようというのです。どんな樹木でもいいのですが、この本にはやはりケヤキが似合います。

 「どうして そうなの」(1年)に、次のような文章があります。

 きや くさは うごかない いきもの
 じめんに ねを はって いきている。
 あめが ふっても 
 かぜが ふいても
 おなじ ところに たって いる。
 おなじ ところで おおきく なる。   「どうして そうなの」(1年)

 ケヤキやスミレやタンポポは「動かない生きもの」の仲間。人は「動きまわる生きもの」の仲間。そう分けてみたら、こどもたちの発想がおもしろいのです。
 人とケヤキの住むところは大地で一緒なのに、人の住むところは地面の上で、ケヤキの住むところは地面の上(葉や幹)と土の中(根)だ。
 人は雨や風が嫌いだから動いて逃げて隠れるけれど、ケヤキは雨が降っても風がふいても、暑くても寒くても、ずっと一生同じところに立っている。
 「動きまわる生きもの」は、他の生きものの「いのち」を食べている。「動かない生きもの」の食べものは、お日さまの光と水。土の中の栄養も・・・・・・・。
 「食物連鎖」や「光合成」のことばを知らなくても、こどもたちはその感性と想像力で、自然や生きものの姿を感じとっていくのです。

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 夏のケヤキ。広げた枝の葉の重さが美しい樹形をつくります。目に見えない
 土の中には地上の枝と同じくらいに根がはりめぐらされています。

 四季のケヤキと向き合ってみると、ケヤキらしい個性が見えてきます。
 ケヤキの幼木はまっすぐに大空に向かい、成長すると扇のような樹形になります。年を重ねると丸みを帯びた美しい球形になります。伸びた枝が自重でしだいに垂れるからです。雑木林や街路樹のケヤキは本来の姿は見られませんが、校庭や公園の一本立ちのケヤキは、その樹形の変化を見せてくれます。
 ケヤキは春の芽吹きから始まり、夏の緑陰、秋の紅葉、冬の木立と四季を通じて楽しめます。すっかり葉を落とした冬の木立は、太い枝から細い枝へと連続する枝分かれが繊細な美しさです。

 四季折々のケヤキをながめながら、美しいものを美しいと感じる感覚、心地よい感情がいったんよびさまされると、ケヤキについてもっと知りたいと思うようになるでしょう。
 ケヤキの花は風媒花なのでとても小さい花です。雄花はその年に伸びた枝の先の付け根のほうに、雌花は先端の方につきます。
 ケヤキの種の散布の仕方は変わっています。秋に強い風がふくと、カラカラに乾いた葉が浮力となって小枝ごと果実をつけたまま親木から飛び立ちます。地面に落ちた小枝を拾ってよく見ると、小さな丸い果実がついているのが見られます。その果実の中に種が入っています。

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  芽吹き始めたケヤキの枝       雄花は枝の付け根に、雌花は枝の先の
                    ほうにつけます。(これは雄花です)

 ケヤキは寿命が長く千年以上も生きるといわれています。切られても800年から1000年も耐久性があり、お寺や神社の建築材として欠かせない木材です。
 木目の美しさを生かして家具や調度品が作られます。和太鼓の材料で最高のものがケヤキ材です。太鼓の胴体は一本のケヤキの原木をくりぬいたものです。

 ケヤキをとおして、自然や生きもの、人と自然のかかわりについて「考える」授業を創ろうとするならば、限りなく豊かな素材が見えてきます。

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 秋のケヤキケヤキの紅葉は赤色・橙色・黄色など、 木によって違いがあるようです。

 1年生で「ケヤキ」の授業で学んだ子が、中学生になったときに書いたという文章を、当時担任だった中野典子さんから見せてもらいました。その子のお母さんが送ってくれたのだそうです。
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 緑の環境 ―校庭に立つ先生―
                         中学1年 杉原 香

 転校の多かった私には、それぞれの学校にシンボルツリーともいえる思い出の木がある。
 「けやき」「くすの木」「いちょう」「桜」、現在通う中学校の自然環境は、さながら森のようで、どの木が主役か迷うほどだ。・・・・・・・・・・・・
 学校の木で強く思い出すのは、何といっても小学1年生の時に観察した「けやき」だろう。一年を通してみんなでみた。やわらかな葉が開いてきたとか、緑の葉っぱがバサバサと繁ってきたとか、けやきに抱きつきガサガサした肌にふれたり、クンクンにおいをかいだり、「けやきのつぶやきがきこえる。」と誰かがいってみんなきそってけやきに耳をつけたりもした。・・・・・・・・・・・・
 けやきから本当に教えてもらったのは小学2年生の時だ。1年生からのもちあがりのクラスでそのまま、けやきの観察は続いていた。ある日の授業で「けやきは動かない。」といった当たり前のことが意見として出た時、(あっ!)と思った。私たちが教室で授業をしていても、校庭で走りまわっても、皆、下校して学校がからっぽになってもけやきは校庭に立ったままだと。私は学校が大好きだったから、しかも目前に転校をひかえていたから、動かないけやきは(ずるい。)と思いうらやましかった。と同時に何ともいえない寂しさも感じた。
 春に芽吹き、夏、葉を繁らせ、秋、紅葉する。冬になっても葉をすっかりおとしても、誰の気にもとめられなくなっても、静かに生きている。そして春、また同じような一年のくり返しだ。けやきは、何年も何年も命の続く限りずっと動かずに立っている。まるで自分におこるどんな出来事もただ静かにうけとめているかのように。・・・・・・・・・・・・・
 そして時に「こんな生き方もあるよ。」と教えてくれる先生でもある。
 校庭に立つ先生。
 木は私たちに、生きるヒントもプレゼントしてくれる。
                          (作者は仮名です)
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 中野典子さんの教室では、「どうして そうなの」「ほんとうは どうなの」の教科書をもとに、「生活科」の授業が工夫されていました。
 当時一年生だった香さんがケヤキの授業で学んだことは、学年が進んでもそのまま心に残り続けていたようです。
 知識としてつめこんだものは消えても、自分で感じて考えて学んだことは、いつかその人の核となり、時を重ねて人生を支えるものになっていくように思います。

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  雪化粧も美しい 冬のケヤキ     連続して広がるケヤキの枝は、細やか

 当時宮城教育大学におられた中森孜郎先生は、この教科書を読んで「おとなのぼくでも、この本で学びたくなる。この本でなら、かしこい子どもが育てられそう。」というタイトルで次のような感想をよせています。

 「この本には、何か結論めいたこととか、答えとか、あれこれの知識が書かれているわけではない。むしろ、問を自ら生み出すためのきっかけとなる内容が盛りこまれている。したがって、この本をどう生かしきるかは、この本を使う教師が、子どもとともに「ほんとうは」「どうして」と探求の旅を楽しむことができるか、どうかにかかっているように思われる。」(教科書・パンフレットより)

 「先例のない時代」を生きていくこどもたちが、支えとなるものは「知識をたくわえること」ではなく「自分で考える力」です。すでに消えてしまった教科書ですが、その内容は今も新しく、これからの時代の教育の在り方を先取りしていた本ではなかったのかと、私は思っています。(千)

◇昨年5月の「季節のたより」紹介の草花

mkbkc.hatenablog.com

コロナな日々と、猫のクリ

 ワガハイは猫である。名前はクリ。ここで暮らしてしばらくになるが、恥ずかしいことに自分の年齢はわからない。先日、客と玄関で立ち話をしている主人の足元に座っていたら、客が突然「ネコちゃんの歳はいくつ?」と言った。どうして急に歳などを聞いたのかはわからないが、(歳なんてどうでもいいじゃないか)と思ってその場を立ち去りかけた時、主人が「17~8ぐらいかなあ。だから、人間で言えばオレと似たようなものじゃないですかね」と言ったのが背中から聞えた。ずいぶんいい加減な言い方だが、それで自分の年令は「17~8」で、人間で言えば80前後ということを初めて知った。まあ、どうでもいいことだが、年寄りのワガハイは年寄りの主人と暮らしているということになるらしい。

 これまで、どこに出かけているのかわからないが、しょっちゅう家を留守にしていた主人はここ数年、家にいる日が年ごとに増えており、最近は、家を空けることがめずらしくなった。(おっ、めずらしく出かけたな!)と思っても短時間で野菜などを持って帰ってくる。出かけなくなったのも歳のせいなのかもしれないな。そういえば、ワガハイも外の徘徊時間はめっきり少なくなっているから、どうやら年寄り同士で住んでいることは間違いない事実のようだ。

 外の徘徊も楽しみのひとつにはなるが、ワガハイの古くからの最高の楽しみは、朝、2階の出窓に座ることなのだ。出窓は棲み処の東側についており、団地のゆるい坂道と並行している。
 この2階から見下ろす坂道がワガハイの楽しみをつくってくれているのだ。それが、なんで「朝」なのか。そう、その時間にランドセルを背にした子どもたちが元気のよい声と一緒に登ってくるからだ。中には、黙々とひとり速足で登っていく子もいるが、いくつかのグループがあまり間をおかずに登ってくる。騒ぎながらジグザクと歩き、奇声をあげるのもいる。大人は何人通ってもこんな光景はまずないし、子どもたちの帰りは朝とは違ってバラバラで賑やかではない。人間の子どもたちってどうしてこんなにおもしろいんだろう。学校って楽しいところなんだろうなあ。学校へ行く子どもたちの様子がとても大事だなどとは誰も言わないようだが、見ていると、なんともうらやましい姿に見えるのだ。
 子どもたちの通る時間はちょうど食事時と重なることがある。そのときは、食事中であっても途中で2階に駆け上る。見逃してしまっては一日中晴れやかな気分にならないからだ。

 それが、今年の春先あたりから異変が起きた。子どもたちの姿も声もパタッと切れてしまったのだ。何も知らないワガハイは、相変わらず出窓で待ちつづけ、「今日は何かあったのだろう」と下に下りる。翌日も駆け上るが子どもたちは姿を見せない。「今日も何かあったのだろう」と、すごすごと下りる。
 なんと、何日経っても子どもたちは現れない。楽しみがなくなっただけでなく、子どもたちのことが心配になってきた。

 ワガハイの1日は、出窓で過ごした後は、午前午後に散歩をし、それ以外はもっぱら寝ることに決まっている。それだけに、元気に楽しげに学校へ向かう子どもたちを出窓から眺める時間はどんなに貴重な時間か。それ以外は、ほとんど食事を待つだけのフヌケタ時なのだから。そのもっとも大事な時が空っぽになってしまったのだ。

 毎日、ジッとしている主人はテレビを観る時間が多いが、そのテレビから数えきれないほど繰り返し聞えてくるのが「コロナ」という音だ。主人は「みんな家にこもっているのだ」とも言っていた。子どもたちの姿が消えたのも、この「コロナ」というもののためだったのだ、きっと。いつまでつづくんだろうな。

 最近、主人がブツブツ独り言を言っていた。「セイジカノ テイタラクハ アマリニヒドイ。オレタチ ヒトリヒトリヲ スコシモ カンガエテイナイ。ナニガ ヒジョウジタイセンゲンダ。ソウイッテイナガラ コッカイハ ケンサツカンノテイネンエンチョウシンギダッテ。バカニスルナ。ナガタチョウハ ニホンデナイノカ。コクミンノ ダイタスウハ コロナカヲ ハヤク シュウソクサセヨウト イロンナガマンヲシナガラ マイニチヲ オクッテイルジャナイカ。オオキナコトヲ イイナガラ コクミンノ コエヲ ドレダケ シンケンニ キイテイルカ。トランプト コロナモンダイデ デンワカイダン? ワラワセルナ ・・・」

 主人のブツブツはまだまだつづいた。主人のこんな姿は記憶にない。よほど腹を立てているらしい。ワガハイは、こんなことはとても困る。どうしていいかわからない。できるのは無理してすり寄るぐらいだ。

 とにかくワガハイは1日も早く、出窓から元気な子どもたちの姿を見たい!
                               ( 春 )

夏休み短縮でよいのか ~ 子どもや教職員の声を ~

 中学校教師の瀬成田実さんが学校再開がままならないなか、教師として感じていることを地元紙に投稿しましたが、今回は残念ながら掲載は難しいとの連絡をもらったとのこと。学校再開や夏休みの短縮、9月入学・新学期制など教育をめぐってさまざま議論が起きていますが、それらの議論に共通して欠落しているのが当事者(子どもや教師)たちの声ではないでしょうか。
 新聞投稿のようには宣伝力も影響力もありませんが、このdiaryで紹介させてもらうことにしました。少しでも多くの人に読んでいただければと思います。(キヨ)

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 コロナの感染拡大は、日々状況が悪化し、学校の対応も二転三転している。私自身も、勤務校の子どもたちの不安やストレスを案じながら過ごしている。
 コロナの感染による学校の休校延長はやむを得ないが、本稿では、授業時数確保と夏休み短縮の問題に絞り、学校の在り方について述べてみたい。
 宮城県南では名取市が全県に先駆けて3週間余りの夏休み短縮を決めた。岩沼市亘理町、山元町の県南3市町も同一歩調だと聞く。そうなれば4市町の小中学校は8月8日~19日までの短い夏休みとなる。夏休みの短縮は一定程度必要だろうが、少し立ち止まって考える必要はないか。

 一つ目は、子どもの立場に立っての検討だ。子どもたちは、3月から続く休校で、「家から出るな」「友達と遊ぶな」と言われ、ストレスを相当ためている。挙げ句に夏休みまで削られる。子どもの権利条約にもある「余暇の権利」を保障しなくてはならない。夏休みの短縮は長くても2週間程度に抑えたい。
 教科授業の時数確保のために土曜授業や7時間授業まで始まるとなると、子どもの負担は一層増すことになる。さらに行事が削減されれば、学校生活から楽しみが奪われ、協力心や団結心を培うチャンスが減ってしまう。学力保障だけに議論が偏ることのないようにしたい。

 二つ目は、夏休み短縮の決め方の是非である。名取市は4月中旬に早々に決めた。私たち現場教員には寝耳に水であった。最近、校長や現場の声に耳を傾けずに施策を決定する教育委員会が少なくない。今回の夏休み短縮決定もその感を免れない。教育委員会を飛び越して首長がトップダウンで決定する場合もある。今、行政に真っ先に取り組んでほしいのは、消毒用アルコールやマスクの確保、児童センターの過密解消、オンラインを活用した在宅学習など教育環境の整備である。夏休みをどうするかは、現場の状況や教職員、保護者の声を踏まえた判断を望みたい。

 最後に私は提案したい。現在の休校はほぼ全国的だ。国・文科省が休校期間に見合う学習内容を削減すべきではないかと。休校はさらに延びる可能性がある。夏休みは有限であり、短縮するにも限界がある。小1から高3まで範囲を示して学習内容を削減すれば、夏休みの短縮は最小限に抑えられる。高校入試や大学入試では、その単元を範囲から除外すれば良いのだ。除外部分を取り戻す工夫は、次年度以降、知恵を出し合って考えよう。今は緊急事態。教育委員会は、至急、文科省に要請してほしい。
 勤務校の職員室では、「中総体や修学旅行は何とか実現させたいね」という声がささやかれている。「いのちが一番」は言うまでもない。だが、可能ならば、思い出に残る行事を一つでも叶えてあげたい。子どもたちの豊かな人間性を育むためにも。
 夏休み短縮と授業時数確保について、県教委や市町村教委には慎重な判断をお願いしたい。

正さんのお遍路紀行(四国・香川編)その7

 涅槃の道場 ~6日間で香川を歩き、結願をめざす~

《 えっ!原爆の火?》
 納経も終えて、“ あ~やれやれ,終わったなあ ” とベンチで休もうとしたら、ん? えーっ! 何でここに?「原爆の火」がガラスケースので中で燃えていた。

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 どういうことなんだと、説明のプレートを見ると次のようなことが書かれていた。

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 お堂や石仏など仏教にまつわるもので構成される寺院の中に、「核兵器廃絶」が “ ぼん ” とあったので驚いた。しかもこの碑は奥まったところではなく、このお寺を訪れた人が必ず通るところで目につく場所に据えられている。どういういきさつで福岡県からここ香川の大窪寺に移されたのかは分からないが、明らかに “ 見てほしい ” という住職の強い願いを感じた。初めは異質な感じがしたが、仏教が平和を願うのは当然のことであり、その教えにも合致することだと気がついた。原爆による苦しみを二度と生んではならないと伝えている大窪寺は、忘れられないお寺となった。

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 空と険しい山がすっきりしている。俺も同じかな? 88カ所終了!!

《歩いてみて思うこと》
 基本的には普通の旅なんだろうけど、違うのは歩く(主に山間部)こととお寺だけ。それ以外には何もない。歩いて、拝んで、食って、寝る。生きるのに最低限な感じがあったかな。それで何が楽しいん?と聞かれても、うまく答えられないけれど、山の中の杣道を喘ぎながら歩き続けているときの五感というかなんというか。山登りの爽快感とも少し違うような気もするし・・・。信心深さが芽生えたのかといえば、う~ん。ただ「密教」の聞きかじりだと、書物や経典など文字から学ぶだけでなく、自然や宇宙と同一化するために山々を駆け巡ることも重要な柱となっているようだ。“ へえ~、人も自然そのものだという感覚を大事にしているんだ。” と分かったら、仏教は案外身近なのかもしれないと思った。

 今後の予定としては、コロナウィルスが治まったら高野山に行ってみようと思う。何か見つかるだろうか。ついでに、熊野古道を歩いてみよう。

《余談として》
 ①靴のこと
 お遍路を始めるとき、どんなところを歩くことになるのか調べてみると、山道だけでなく平地もあった。割合的には山道が多いと思いトレッキングシューズにした。はじめの頃は平地を歩くと豆ができた。山を歩く方が豆はできなかった。アスファルトと土の違いなのだと思っていた。でも、回を重ねるうちに、ひもの結び方で軽減できることを知った。平地では足首に余裕を持たせて結ぶ。山に入ったら足首までしっかり締める。トレッキングシューズはその名の通り軽登山用だから、平地の長歩きには適さない。理屈は分からないが足首の締め方で対応できるようだ。高知では運動靴を使ってみたが、荷物をしょっているとバランスが悪いと思った。それに、山の下りでは踏ん張りがきかなかった。人によるだろうが、トレッキングシューズは正解だと思った。

 帰りの新幹線で、靴を脱いでリラックスしようと、左の靴を引っこ抜いたら靴底のソールが一口分なくなっていた。あらま、これまでか。バーゲンで6000円とお得だったトレッキングシューズは、1200kmを持ちこたえてくれたんだ。ごくろうさん。捨てらんねえな。

②ガイドブックの地図のこと
 徳島、高知を歩いたときには何の違和感もなく、JTBパブリッシング発行の「四国八十八カ所をあるく」の地図を使った。使いづらくなったのは愛媛に入ってからだ。どういうことかというと、地図が南北逆に表示されている。瀬戸内海側から愛媛、香川を見るようになっている。だからルート確認をするとき、実際は海は北に見えるのに、本では海が下になっているのだ。その都度本を逆にして見ないと位置確認ができなかった。へんろみち保存協力会の発行する「四国遍路ひとり歩き同行二人」というバイブル的存在の地図(36ページ)も愛媛から南北が逆になっていた。“ 何なんだいったい、把握しづらいなあ ” と思いつつも、だんだん慣れてしまった。というか慣れるしかなかった。

 仙台に戻り,歩いた道を振り返るために地図を見ていたとき、「おお!そうか!」と発見した。非常に単純なことだった。普通の地図は北が上だから、徳島から高知にかけて歩く遍路道は「右から左に表示されていく」ところが、北を上にしたまま愛媛から香川の道を表示しようとすると「左から右に向かうことになる」そこでだ。右綴じの本の場合、遍路道が右から左に伸びていくと、ページをめくれば滑らかにつながる。ところが、北を上にしたままだと愛媛からの道路表示は「左から右」となる。右にめくる本の場合、道が滑らかにつながらなくなる。
 お遍路を順番に従って(本をめくるに従って)ガイドしようとすると、道は常に右から左へと向かう方が案内しやすい。愛媛から香川への案内も、めくるに従って進むためには、南北を逆にした地図表示にしないとそれができないのである。謎が解けてすっきりした。
 歩いているときは、何枚もめくることはなく、せいぜい2ページぐらいだったから、この謎に気がつかなかったのだろうと思う。右綴じでも、もっと使いやすいお遍路地図にするにはどうしたもんかと考えている。商品化して・・・

正さんのお遍路紀行(四国・香川編)その6

 涅槃の道場 ~6日間で香川を歩き、結願をめざす~

【6日目】3月20日(金) ~結願の寺を目指して歩く~ (西風強く寒い)

宿発 7:00 ⇒(7km)⇒ 87長尾寺 8:30 ⇒(5.4km)⇒ おへんろ交流サロン 10:20 ⇒(11.3km)⇒ 88大窪寺 14:30⇒ コミュニティバス 15:51 ⇒ 琴電 16:27 ⇒ JR高松駅着 17:09

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                わらじが迎えてくれた長尾寺山門

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           御詠歌        御本尊

《あしびきの 山鳥の尾の~?》
 参拝を終えて納経帳を書いてもらっているとき、“ようし!いよいよあと一つだ ” と気が引き締まった。そうしたら、ふと見覚えのある百人一首の札が目にとまった。「あしびきの 山鳥の尾の 長尾寺 ・・・・・・」後半は違うけれども、明らかに「あしびきの 山鳥の尾の しだりおの 長々し夜を ひとりかもねむ」と似すぎている。そこで、目の前の若い住職さんに聞いてみた。「このうた、百人一首に出てるものと似てるんですが・・・」すると「詳しいことはわたしにもわからないんですが、300年ほど前にこの寺を新しくしたとき、すでにこのうたは前のお寺にもあったそうなんです。」とのこと。う~む。和歌に全く疎い身なので、上の句がここまで同じということが不思議でもなんでもないのか、それとも不思議なのか理解できなかった。ただ、どのお寺にもこのような御詠歌(平安巡礼歌)があり、御本尊の札とともにちゃんともらっていたことを初めて知った。毎回2枚もらっていたことは分かっていたが、それが何なのか全く見ていなかったのだ。恥ずかしいというか、興味がなかったというか・・・。

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     前山ダムの向こうに見える山まで行くのか?

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             前山お遍路交流サロン                                     お遍路大使?となる

 初めてお遍路に足を踏み入れたとき、徳島の宿のおやじさんが、「このサロンには必ず立ち寄れ。」と言っていた。その時は、何でそんな山の中に作ったんだろうと思った。来てみて分かった。結願を前にして、長い道のりを歩いてきたお遍路さんを心からもてなす場所だったのだ。お茶とともに「四国八十八カ所遍路大使任命書」なるものを授与された。歩きか車か? いつから始めたのか、どこから来たのか、何がきっかけかなど、結構詳しく聞かれた。しかし、ここはお寺ではないので、しっかり歩ききったことを証明し、他の人にも広めることを目的としているようだった。

 対応してくれたおばさんは何でも知っているようだったので、「結願したら,お寺から何か証明書のようなものはもらえるんですか?」と聞いてみた。そうしたら、「それはもらえるんじゃなくて、2500円出して書いてもらうんだよ。お金さえ出せば,回ってない人でももらえるものなの。」 “ えっ!お金出せば誰でも? ” 内心、結願書はいいやと思った。「それが無くたって高野山に行けるんでしょう?」「もちろんですよ。納経帳に高野山奥の院のページがあるでしょ。そこに記帳してもらえば十分だと思いますよ。」ふむふむ。でも今回は高野山行かない。コロナ対策。
 さあ、あと10kmがんばろう。

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     花折峠遍路道から大窪寺方面の山が見えた

 大窪寺へのルートは4通りあるが、やはり旧遍路道を歩くとことにした。花折峠という道標に従って登りに入ると、とんでもなく急だった。四国全体に「へんろころがし」という難所が何カ所かあるが、ここが一番のように思った。急なだけなら休み休み登れるのだが、山土が起伏もなく空に向かっているので、足場が取れない。急な滑り台を登っている感じだった。下りには絶対使えないと思った。ここにこそ「へんろころがし」の名をつけるべきなのに付いていない。5kmはつらかった。出口が近づくとやがて平坦になるのだが、最後の竹林の道が非常に危険だった。片斜面に道が延びているのだが、その幅は30cmもないのだ。靴の幅ぐらいでしかも落ち葉が積もっているので、しっかりしているかどうかが分からない。「へんろ地獄」と名付けた。

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   よし!あと1.7kmだ!                        護摩法要に煙る大窪寺

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               金剛杖が納められている

 金剛杖と菅笠もいよいよ終わり。正直言うと、四国に入るまでの電車や地下鉄、バスの中、この2つが非常に厄介だった。鈴はチリンチリンなるので、結構気を遣った。納経所のお坊さんに「杖と笠を置いていきたいのですが」と言うと「奉納ですね。一つ1000円になります。二つなら2000円です。」“ えっ!そういうことなのか。確かにごみじゃないもんな ” 少し迷っていると、「高野山に行くとき必要になりますよ。それに、長いお遍路を共にしたのですから大事に手元に置かれた方がいいと思いますよ。」う~ん。その通りだな。奉納は止めにした。
                       (つづく、次回最終回)