mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

季節のたより50 ホトケノザ

 魅惑の唇花のしくみ  畑の土のバロメータ

 暖かくなったので我が家の小さな菜園に野菜のタネをまこうとしたら、見慣れない草花がピンクの花を咲かせていました。よく見ると、ホトケノザでした。
 台座のような葉から花をそっと引き抜き、根元をちょっと吸うと、かすかに甘い蜜が舌の先につきました。こどもの頃、田舎の畑や原っぱでよくやっていた遊びです。

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 陽光をあびて  ホトケノザの小さいピンクの花がおしゃべりをしているようです。

 ちなみに、春の七草のひとつの「ほとけのざ」は、このシソ科のホトケノザではなく、図鑑ではキク科の「コオニタビラコ」というまったく別の植物のことをいいます。コオニタビラコは、地面に広げる放射状の葉が仏さまの台座のようなので、もともとは「ほとけのざ」と呼ばれていました。ところが、このシソ科のホトケノザも、やはり花を包む葉の形が仏さまの台座に似ているので、いつのまにかこちらの方が「ホトケノザ」と呼ばれるようになり一般化してしまったようです。

 春先に咲く草花で、ホトケノザと似ているのがあって、時々間違えられてしまうのが「ヒメオドリコソウ」です。どちらもシソ科なので似ているのです。
 日本にも在来種のオドリコソウが見られますが、よく目につくのは、外来種ヒメオドリコソウです。道端で淡いピンク色の花が鮮やかに群生しています。
 植物の茎はすべて丸いと思い込んでいる人が多いのですが、シソ科の植物は茎の形が円でなく四角形で、断面は多くが正方形です。実際に触って確かめてみるとおもしろいです。シソ科特有の香気も感じられるでしょう。花の形も似ていて、唇型花(しんけいか)という唇の形をしているのが特徴です。

 ホトケノザと近い時期に咲きだして、仲間だと思われがちなのがケシ科の「ムラサキケマン」です。ムラサキケマンの花は、ラッパのような筒状の形をしています。ホトケノザの花と見比べてみると違いがわかってくるでしょう。ムラサキケマンには毒がありますので、間違っても口に入れたり、ホトケノザと間違えて蜜を吸ったりしないように気をつけてください。

 

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      ホトケノザ           ヒメオドリコソウ       
   葉が段々になっていて、花は葉の  花が葉の間から顔をのぞかせます。
   上に乗っているように見えます。  (咲き始めの頃)

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      ヒメオドリコソウ          ムラサキケマン
   花がしだいに葉の上にとび出して  ラッパのような花の形が特徴です。
   きます。

 春の陽を浴びて一面に咲いているホトケノザは、花の唇でおしゃべりを楽しんでいるかのようです。でもこの魅惑の唇はハチたちを呼び寄せるためのものです。
 空中を飛ぶハチは、花の下の唇の美しい模様に魅かれて近寄ってきます。下の唇は少し広くなっていて着地に好都合のヘリポートです。上の唇には花の奥へと蜜のありかを知らせる線がひかれています。細長い花は中に入るほど細くなっていて、それでもハチが突き進むと、上の唇の下に隠れていた雄しべが下がってきて、ハチの背中にペタンと花粉をつけるのです。ハチは背中まで脚がとどかないので、自分ではその花粉をとることはできません。花粉を背負って次の花へと運んでくれるのです。ホトケノザの花は、花粉を無駄にしないしくみになっているのです。

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  ハチたちをさそう唇形の花姿     下の唇花は、ハチたちのヘリポート

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 上の花びらの下に蕊がかくれています。      ハチがもぐりこむと背中につきます。

 夏になると、ハチは春先のように花にやってこなくなります。魅惑の唇も働きがいがないと思ったのか、ホトケノザは花の口を固く閉ざしてしまいます。それから、葉のつけ根に目立たない閉鎖花をつけて、つぼみのまま自分の花粉で受粉して実を結んでしまいます。ホトケノザは、季節を変えて花の咲く開放花と花の咲かない閉鎖花の両方で種子を作っているのです。

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 葉の上に閉鎖花がみえます。       枯れた葉から種子がこぼれました。

 ホトケノザは子孫を残すために、種子をどのように散布しているのでしょうか。
 枯れた台座のような葉をとってふってみると、ぱらぱらとその場に落ちました。
 多くはその場に散布されるようですが、種子の中にはエライオソームという物質が付着しているものがあります。このエライオソームは、脂肪酸や糖、アミノ酸などが成分でアリが大好きなのです。これでアリを呼び寄せ、種子を巣まで持ち帰らせながら広範囲にばらまいてもらおうとしているのです。

 ところで、ホトケノザは、このエライオソームの量や質を調節して、閉鎖花にできた種子よりも開放花にできた種子を、アリに積極的に持ち運ばせているようだというのです(website「畑は小さな大自然」vol.61)。
 ある研究では、アリを排除して栽培したホトケノザの種子を育てると、閉鎖花だけになり、アリ存在区で育てたホトケノザは開放花をつけて種子の数も圧倒的に多かったことが報告されています。(第52回日本生態学会報告)
 ホトケノザは、閉鎖花にできた親と同じ遺伝子を持つ種子を親元近くに散布し、開放花にできた多様な遺伝子を持つ種子を、できるだけ遠くに散布しようとしていると考えられます。命を絶やすことなくこの自然界を生き抜こうとするホトケノザの知恵でしょうか。

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   上から見ると万華鏡の花模様。小さな赤いものがつぼみです。

 ホトケノザは、ふつう秋に種子が発芽して冬を越し、春に花を咲かせて実を結ぶという生活史をもっています。秋に発芽するのは、大型の植物が枯れて地面も日差しも独り占めできるからです。葉は小さな毛でおおわれていて冬の寒さに耐えられます。冬の間も成長を続け、春にほかの植物が芽を出し始める頃には、もう花を咲かせる準備ができています。寒さの季節をうまく利用するという、背丈の小さい草花が身につけてきた生き方なのです。ホトケノザには、気のはやいものや変わりものも多いのか、季節にかかわりなく花を咲かせてもいるようです。

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秋に発芽、幼い葉の頃。     立ち上がり四方に広がる。  年中、花を咲かせるものも。

 畑に生えてくる草花はたいてい雑草といって嫌われますが、自然栽培をしている農家の人によれば、雑草はその畑の土の状態を知らせるバロメーターだというのです。土が硬く痩せているときにはヨモギ、スギナなどの限られた種類の草が目立ちますが、土が良くなるにつれて、スベリヒユカラスノエンドウツユクサなどの種類が生えてきて、ハコベオオイヌノフグリホトケノザなどが見られるようになると、少しの肥料でたいていの野菜が育つ土になったと考えていいのだそうです。
 ホトケノザは畑の土がよくなってきたことを教えてくれていたのです。

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ホトケノザが生える土は㏗値7~(弱アルカリ性)で、作物が育ちやすい土地とのことです。

 土は砂や粘土や鉱物などに死んだ動植物が混ざったものです。土のなかで植物が育つ養分となるのは砂や粘土ではなく、植物が枯れたものや、落ち葉、虫の死骸などです。これらの動植物の遺骸が微生物やミミズなどの働きで分解されて、植物の根からふたたび吸収される養分になります。自然界の豊かな土は、多くの生きもののいのちの積み重ねでできています。
 自然界の土が1センチになるまでには、100年という気の遠くなるような長い年月がかかるそうです。人は自然が残してくれた土に、落ち葉やたい肥、生ごみなどを加えて、ミミズや微生物の働きも活発化させながら、畑の土づくりをしています。作物を育てるために、自然のしくみに従って、土を豊かにしているのです。

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  人間の都合で “ 雑草 ” と呼ばれる草花も、大地を豊かにする役割をもっています。

 菜園に生えてきたホトケノザがピンクの花を咲かせていますが、さて、野菜の種をまくためには土を耕さなければなりません。耕すところに咲いた花は、「ゴメン」と言って抜きとり乾燥させて、土にもどすことにしました。
 ホトケノザは背があまり高くならないので、野菜と共生できるといいます。残しておくと、土の表面の乾燥を防いだり、ほかの草が生えるのを抑えたりしてくれるそうです。根が通っていた穴は空洞として残るので、土の中の通気性や排水性を良くして土を耕すような効果もあるというのです。

 畑の土は育てる野菜に養分がとられるため、堆肥や肥料を入れてたえず栄養分を補給しなければなりません。自然界ではその役目をしているのが “ 雑草 ” といわれる多様な植物たちです。実際に草におおわれている大地は、枯れた草や根がつもってミミズや微生物も多く土の色も黒々としています。
 畑に生えてくる雑草といわれる植物たちも、畑の土を豊かにしてくれる本来の役割をもっているはず。その植物たちの特徴や生活史がよくわかると、邪魔者あつかいにしないで、うまくつきあい大地へ還していくことができそうです。
 さりげなく菜園にやってきたホトケノザは、かわいい花を咲かせながら、どんな草花も自然の生態系の中に位置づき咲いていることを教えてくれているような気がしました。(千)

◆昨年4月「季節のたより」紹介の草花

mkbkc.hatenablog.com

文末に研究者の矜持が宿る ~ 山極さん公開授業に想う ~

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 不要不急の外出自粛が続くなか、「やることがないなあ~」などと時間を持てあましていませんか。そんな方にお薦めしたいのが、『センターつうしん98号』です。

 今回は、今年1月25日に開催された山極寿一さん(京大総長)の高校生公開授業を取り上げました。授業は1コマ60分の、2コマです。その2時間の授業を、所長の仁さんが6ページ半というごく限られたページにまとめる至難の業を成し遂げてくれました。
 実際の授業は、ゴリラの生態などの映像やいろんな調査研究のデータを示しながらの展開で、次から次へと興味深い話がなされ、あっという間の2時間でした。それをそのまま「つうしん」に載せるというのは残念ながらできませんが、十分読み応えのあるものなっていると思います。ぜひこのような時だからこそ、読んでみてください!センターつうしん No.98

 ところで、今回の「つうしん」のように授業や講演会などを報告するには、それらの音声データを文字に起こす作業をしなくてはなりません。それは、地味で骨の折れる仕事ですが、ときに思わぬ発見をしたり楽しかったりするのです。
 例えば、音声データをそのまま文字に起こしても主語—述語の関係が崩れず、そのままでも十分に文章として読める話し手がいるかと思えば、話を聞いているときはとてもおもしろく違和感なく聴いていたのに、文字に起こすと主語と述語の関係が一致せず、読みものにしようと思うと相当に手直しをしないといけない話し手があったりするのです。それは、文字に起こすという作業をするなかで見えてきます。

 もちろん文字に起こすという仕事のしやすさから言えば前者ですが、一方で話し手の話の文脈が飛躍し論旨が一貫していないと感じられるところに、その話し手の思考の動きを感じたり、何の違和感もなく楽しく聞ける語りの不思議さを想ったりと、それはそれでおもしろい発見だったりするのです。そして、話の飛躍や言葉の揺らぎ、ためらいに、話し手の性格や人となりを感じることもあります。

 また文字に起こす作業をする中で、話し手の語りのリズムがシンクロして憑依したように感じることもあります。それは、ある種とても心地よい瞬間です。そういう時は、得てして音声データを文字に起こすのがサクサク進みます。逆に、話し手のリズムがなかなかつかめない時は、文字を起こすのが一苦労だったりします。

 さてさて、では今回の山極さんはどうだったの?と気になるところですよね。しばらく前に「 “学がある人は違うな” ~山極さん高校生公開授業~」と題し、公開授業を受けた高校生のことをdiaryで取り上げましたが、“ やっぱり山極さんはすごい研究者だなあ ” とその語りから気付かされたのは文章の結び方です。

 これまでの研究や調査ですでに明らかになっていることや事実について語るときは「~です」「~である」「~と言われている」というように断定的に結びますが、研究成果や調査の事実にもとづいて持論や考えを展開するときは「~と思います」「~と考えます」「~ではないか」としっかり使い分けていることです。

 なんだそんなことと思われるかもしれませんが、案外文末の結びは曖昧だったり、無意識に使っていたりするものです。語尾が「~です」なのか「~でない」のかよく聞きとれない人もいたりします。そして、そういう細部に、実はその人の人なりや物事に対する姿勢が見えてきたりするように思います。受講した高校生とは違いますが、そんな語りに、山極さんという研究者のすごさ・姿勢を感じました。

 「つうしん」は概要なので、その辺りをどれだけ感じていただけるかはわかりませんが、そういう細部にも目を向けると、また違ったものが見えてきたりするものです。

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 最後に、報告となりますが、この3月末で菅井仁さんが所長を退任しました。気さくで優しい仁さんにもう会えないのかと寂しく思われる方もあるかと思いますが、ご安心ください。これからも運営委員や事務局メンバーとしてセンターに関わっていただきます。

 そして、4月からは新しい所長として高橋達郎さんが着任しました。達郎さんは宮城の教育文化運動の先頭に立ちながら、小学校教師として多くの教育実践に取り組むとともに、宮城教育大学の非常勤講師なども引き受け、宮城そして日本の若い先生たちの育成にも関わっています。

 同時に、日本一の竹とんぼ名人。しばらく前には所さんの番組『笑ってこらえて』に登場し、「とりゃー」という掛け声とともに天高く竹トンボを飛ばす勇姿が放映されました。それだけではありません。ケーナサンポーニャの調べで人々の心をアンデスへと誘い癒し、そうかと思うとフォークギター片手にさだまさしを歌いまくります。つまり見ようによっては大きな子どものようなのです。興味関心のあることには何でも挑戦し、とことん追求する。そういう純真で、若々しい精神をいつまでも忘れず持っているのが達郎さんです。今はコロナでおとなしくしていますが、そのうちパワー全開の達郎さんの姿が見られることと思います。

 どうぞこれからも新所長の達郎さんと研究センターをよろしくお願いします。(キヨ)

エイジソン、友の言葉がひらく世界

 8日の朝日新聞「折々のことば」は、数学者・森毅さんの「学校というものの中では、教師に学ぶよりは、友人に学ぶことの方が多いはずで、その友人が同学年に限定されるなんてつまらない」の言葉だった。

 鷲田さんのコメントにうなずきながら、コロナ禍の学校休校にかかわって心配する新聞などで見る大人の声が浮かんだ。もちろん、ある日、唐突に(?)全国一斉休校を述べる総理にも(全国一斉休校の前にやることはないのだろうか・・・)などの疑問もいだいたが、「休校」というと、多くの保護者から出る「勉強が遅れる!」の合唱(?)にもやや辟易する。
 今回の休校措置では友だちと遊ぶこともできない特殊な事情があるからだが、森さんが、このように言った頃の親たちだったらどうだったのだろう。反応は今とやや違うような気がするのだが・・・。

 時代はどう動いても、森さんの言う考えを子どもたちと向き合う教師には教師としてもつべき大事な言葉のひとつにしてほしいと思う。
 森さんのこのことばを「折々のことば」に取り上げた鷲田さんも、森さんの言う学校観・教育観・子ども観と変わってきている現在を案じたからではないだろうか。
 このような言葉をさりげなく取り上げられているだけでドキッとする。「学校論」や「子ども論」などあまた論じられているが、まだまだ議論されなければならないように思う。しかし、小学校にまで英語や道徳まで侵入し、一日のスケジュールがぎっしり埋め尽くされている現在の学校では互いに論じ考える余地はまったくないのかもしれないと言われそうだが、だからと言って、学校の根幹にかかわることから逃避することはできない。

 これからちょっと語ろうと思うことは、「ムカシのこと」と歯牙にもかけられないかもしれないと思うが、かつての私の教室で森さんの言葉に結びつくと思われる出来事をひとつ述べてみる(以前にどこかに少し書いたことがあるような気がするが)。

 前回のこの欄で私は、子どもから通信表をもらったことを書いたが、今回は、35年間の教員生活でただ一度、子どもから「通信表の学習評価の訂正を直接言われた」ことを書いて森さんのことばにつないでみたい。
 渡した通信表の評価が「まちがっている」と突きつけられたとき私は内心びっくりしたが、すぐそのわけが浮かび、修正を要求されながら、なんとも言えないうれしい気持ちになったことだ。
 ことは、こうである。

 6年生の2学期の最後の日、通信表を配った。出席簿1番のE男は一番前の席に座っていたが、通信表を手にして、ちょっと目にすると手にもったまま動かずにいた。どうやら連絡欄などに書いていることへはまったく興味がないようだった。他に配りつづけながら私は(E男らしいな)と思っていた。
 E男は、全員に配り終わるのを待っていたのだ。
 全員に渡し終えたところで、彼はスッと立ち上がり私のところに来るや、通信表をひらいて指差し、「ここが間違っている」と言うのだ。指先は「ふつう」に印のある算数を指している。私はすぐ、ある算数の時間を思い出し、「ああ、『あのこと』か?」と言うと、彼は「そう」と言う。「あのこと」で通じ合ったのだ。
 私はそれ以外のことは何も言わず、「わかった。直すから、帰りに職員室に寄って」と言うと、E男は「うん」と返事をして静かに自分の席にもどった。
 その「算数の時間」というのは、こんなことだった。

 算数で、立体の表面積を求める学習の終わりに、教科書にはない円錐の表面積を求める問題を出した。子どもたちは教科書外のこの問題にも夢中になった。
 「できた!」と叫んで次々と競うように黒板に走り寄って説明をするのだが途中で進められず、すごすごと自分の座席にもどるのが十数人つづいたろうか、その後で出てきたのがE男だった。彼はゆっくりと話し始め、なんと最後まで行きついた。教室がどよめいたとき、後方の座席に座っていたT男が大きな声で「エイジソンだ!」と叫んだ。E男の名は「エイジ」なのだ。エイジソンことE男はニコニコして自分の席にもどった。

 通信表が間違っていると言われた時、この時間のことをすぐ思い出した。それで「ああ、あのことか?」と言ったのだった。それはE男にもストレートに通じた。
 何が、私たちにそれだけで通じ合えたのか。私は今でも、T男の言った「エイジソンだ!」の一言が、E男にも私にも忘れがたい出来事にしたと思っている。問題が解けただけではない。それなら、子どもにとっても私にとってもいろんな場であることだ。なぜ、この算数の時間が「あのこと」で通じ合える時間になったか。それは間違いなくT男の瞬間的な機知の言葉が刻み込ませたのだ。私は、いろんな人間が一緒に暮らす意味の大きさを教えてもらった。E男はまた、問題が解けただけでなく、エイジソンになった忘れえない時間になったのだ。だから、E男と私は「あのこと」で通じ合えたのだ。

 T男だけではない。クラスにはいろんな子どもたちがいて、互いにT男のような役割を果たしている。そのような意識的無意識的交換がクラスの輝きをつくるのだと思う。( 春 )

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正さんのお遍路紀行(四国・香川編)その5

 涅槃の道場 ~6日間で香川を歩き、結願をめざす~

【5日目】3月19日(木)~ 源平合戦の舞台“壇ノ浦”を歩く~ (20℃暑い)

宿発 8:50 ⇒(7km)⇒ 琴電瓦町駅 10:46 ⇒(5km)⇒ 琴電潟元駅 11:00 ⇒(3km)⇒ 84屋島寺 12:05 ⇒(5.4km)⇒ リフト利用 ⇒ 85八栗寺 14:40 ⇒(7km)⇒ 86志度寺 16:50(1km)⇒ 宿着 18:30

 本日の日程を考えたとき、無駄なく歩いても志度寺に着くのは5時ぎりぎりだ。足裏の状態もかなり悪化するだろう。明日の最終日に少しでも余力を残しておく必要がある。そう考えて、今日は乗り物が使えるところは使おうと決めた。全て自分の足で!と望んできたが、最終目的は88番にたどり着くことなので目をつぶることにした。なので出発時間も大幅に変更。

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    お接待パート2

 琴電瓦町駅に向かう遍路道(といっても街の中)をせっせと歩いていたら、自転車に乗ったおばさまが、キキーと目の前で止まり「ちょっと待って」と荷台の袋をがさがさやりだした。そして、「おつかれさま」とみかんとチョコレート菓子を渡された。何度もお礼を言って歩き出そうとしたら、「あ、そうだ!」と今度はタッパーを取り出して「おいしいイチゴだから2個取って。大きいの取って。」何でしょう、そんなにしてもらうほど信心深いわけではないので申し訳ない気持ちだった。これからお花の稽古に行くところだったから、お仲間にと思っておいしいイチゴを洗ってきたとのこと。どこから?と聞かれたので、仙台ですと言うと、震災復興は進んでいますかと尋ねられた。ちょっとの時間だったが、こんな遠くにも東北の震災を気にかけてくれる人がいるんだと拝みたくなった。元気もらったな。

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  屋島寺への登り(急坂には見えないが急坂)

《盲目の方と話す》
 この日は気温20度と夏のような暑さ。汗だくで1時間ほど登ると到着なのだが、途中の水場で休憩した。すると、上から白杖を突いた方が一人で降りてきた。「お一人で大丈夫ですか?」と声をかけると、お話好きのようでいろんなことを話し出した。この麓に住んでる方で、初めは見えていたそうなんですが視野狭窄という病気になり、今はほとんど見えなくなってるとのこと。直らないものなのかと聞くと、直らないとのこと。見えなくなるに従って行動自体も家のなか中心になるので、リハビリもかねてここを登っているとのこと。自分の生活を豊かにするには、決まった動線だけでなく知らない場所を歩いて広げていくしかないのだと思った。話していて、この方は自分の病を悲観している風もなく、ありのままに受け入れ、自分にできることを楽しみながらやっているように感じた。どこか堂々としているようにも思った。

 上の写真ではすっかり整備されているように見えるが、所々に階段もあり、部分的に斜めになっていたりもする。だから、「下りは超慎重に降りて下さい。人も頼ってくださいよ。」と声をかけると彼は最後に握手を求めてきた。 “ あ、コロナ ” と頭をよぎったが、すかさず握り返した。そういえば、昨年愛媛のお遍路で会った方も視野狭窄だったなあ。彼らにとって「歩く」ことそのものが生きることなんだなあ。

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       84番 屋島寺に狸がいる?

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         壇ノ浦が眼下に(八栗寺はあの山か)

 屋島寺から次の八栗寺に繋がる遍路道は山門を戻るのではなく、血の池を通過となっていた。東大門を出るとすぐにその池はあった。何だってすごい名前の池なんだことと思いながら水面を見たが、澱んだ普通の色だった。林を抜けたら急に視界が開けた。思わず写真を撮る。そうしたら急坂を登って地元のおんちゃんがやって来た。「今日はどこまで行くんだい?」と聞かれたので、「志度寺です」と言うと、「ずっと奥に湾が見えるだろう。あそこだから十分行けるよ。」と教えてくれた。ついでなので「八栗寺はあの山ですよね。」と聞いてみた。「そうそう。こっからなら1時間ぐらいで行くんじゃないかな。」とのこと。励ましてくれたんだろうけど、この急坂を下って街を抜けてまた登って・・・1時間じゃ絶対無理。空海じゃないんだから。と、この時は、歩くことしか考えていなかった。

 仙台に戻って再度地図や資料を眺めていたら、何と下に見える湾が壇ノ浦だったのだ。義経の弓流し、那須与一の扇の的など、源平絵巻の舞台が目の前に広がっていたのにちっとも気づかなかった。あの「血の池」は、壇ノ浦の戦いで武士たちが血刀を洗ったことに由来するらしいと知った。

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遍路道にイノシシ進入防止柵が!     菜の花畑で足が止まる

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    本場「讃岐のぶっかけ」にありつく

 八栗寺へのリフト乗り場手前に料亭構えのうどん屋さんがあった。ここまで来て、本場のうどんを食わずに帰れるものかと暖簾をくぐった。嬉しくて写真を撮った。結果、お口に合わなかった。なぜか。付け汁が上品で薄味すぎた。当然うどんそのものの味が際立つ。醤油味を基本として食べているおいらには、うどんだけを食べている感覚だった。決してまずいと言ってるのではない。食習慣の違いである。他のお客さんはおいしそうにちゅるちゅる食べていた。

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     五剣山と一体になった85番八栗寺

《日本一周の青年と出会う》
 今日はこれまでになく、いろいろな人とふれあう時間が多かったので、やっぱり最後は時間との闘いだった。志度寺に着いたのは5時少し前だった。慌てて本堂に駆け込み、参拝していたらベンチに座っていた若者に声をかけられた。そばに大きなザックが置いてある。自分はお遍路ではなく、放浪していると語った。何か面白そうな奴だと思い、隣に座って話を聞いた。日本の海岸線を歩いて日本一周をしている途中だと言った。「じゃ、無職か?」と聞くと、「いや、働いてお金が貯まったら、2ヶ月ぐらいこのたびを続けるの。それで今回は四国に入った。ところで、あなたは仕事は?」と切り替えされた。「定年退職して今はパートだから、無職のようなもんだな。君と一緒だ、あははは」
 海岸線だけを歩くのは、容易なことではない。それはおいらも知床半島の海岸線を岬に向かって歩いたことがあるからよく分かる。彼は自分の話が通じると思ったか、家族のことや今の時代のことやひいては政治に対する意見なども話し出した。当然こちらも、自分の職業が面白かったことや家族のことを話すことになった。1時間以上も話したろうか辺りは真っ暗になっていた。

 彼はわたしの息子と同じ27歳。なのに、「今の若い連中は仕事をして給料もらって親に何でもやってもらって、それでいて文句しか言わねえ。そういうことのありがたみを全く感じてないんだ。自分は一人で歩いてみてそれがよく分かるようになった。」などと言う。また、息子の話になったとき、「仕事はしてるのか?どんな仕事をしてるのか?」とすごく聞きたがった。子ども時代は学校が好きではなく、あまり行ってないような感じだった。そんなことを合わせると、彼の旅は日本一周することが目標ではなく、これからどう生きるかを考える時間なのではないかと思った。社会に乗り切れなくてもがいているようにも見えた。何の励ましもできなかったが、「一人旅はどうしたって決定を強いる場面がたくさん出てくる。特に君の歩く海岸線は危険を必ず含んでいるから正確な判断も求められる。そういうことが貴重な財産になるぞ。がんばれよ!」と先輩ぶるのが精一杯だった。そうしたら「子どもに関わる仕事は十分にしたんだから、四国だけじゃなく外国を回ったりする時間に使ったほうがいいよ。」と諭された。彼の母親も教員で、きつくて早めにやめたと言っていたから、そんな姿を見ての言葉だったのだろう。
 彼は今夜のねぐらを求めて数キロ離れた道の駅へ歩いて行った。

新年度、コロナのなかでつれづれに・・・

 コロナウイルスの感染拡大の影が、目に見える形で私たちの生活にひたひたと広がってきている。今週に入って自宅から最寄りの地下鉄駅までの人影が明らかに少なくなってきたように感じる。駅に向かう人たちは、みな足早で寡黙だ。町がとくに静まり返って感じられるのは、保育所に保護者とむかう子どもたちの声がしないせいかもしれない。

 地下鉄の車内も学校が一向に始まらないことと、テレワークや時差出勤なども増えているのだろうか? いつもは背中のバックを前に抱えるのに、そのまま背負ったまま乗っても大丈夫だ。どこからか風が入ってくると思ったら、車両端の窓の上部が数センチほど空いている。車内の換気のためだ。アナウンスが、そのことを淡々と伝える。一方退勤時の地下鉄は遊んだり飲みに行ったりしないでまっすぐみんな家路につくせいだろう、ずいぶん混んでいる。朝の時差出勤はあっても、帰りの時差退勤はあまりないのだろう。

 変わったのはまわりだけではない。今週から私たちも自宅待機も加味しての仕事となった。それだけではない。4月に予定していたセンターの学習会(『教育』を読む会、ゼミナールSirube、道徳と教育を考える会)もすべて取りやめた。この間、私たちだけでなく様々な文化的な企画や行事・イベントがとりやめとなっている。コロナのことを考えるなら仕方ないことなのだろう。でも、仕方ないでコロナが終息するまで手をこまねいて待っているだけでよいのだろうか。

 少し前の事務局会議で、3月2日の学校一斉休校からこれまで学校の先生たちは子どものいない学校でどのような時間を過ごしたのだろう。そしてこれから先の、どうなるか見えない時間をどう過ごすのだろう。そんなことが話題になった。それは学校ってなんだろう、教育ってなんだろうという問いにもつながっていくのではないだろうか。

 文化は人と人とをつなぐ。初代センター代表・所長の中森がよく口にしていたことだ。その文化的な取り組みが私たちの生活からどんどん縮小していっている。
 今のような状況のなかで何をどのようにできるかは即答できないが、こういう時だからこそ何が大切なのか、何ができるのかを模索し、考えていきたい。(キヨ)

西からの風26 ~ 私の遊歩手帖10 ~

ゴッホの手紙』とやっと出会う3

 前回からもう3ヶ月を過ぎてしまった。続きを書くはずが。
 その3ヶ月のあいだに、私は小林秀雄の『ゴッホの手紙』に出会いに行った。
 寄り道なくして、なんの「遊歩」ぞ! これは言い訳。
 そうこうしているうちにショウペンハウアーの『意志と表象としての世界』にはまった。今も、だが。これも言い訳。

 前回立てた問い、《ゴッホにあってイエスへの敬愛が何故に仏陀的な汎神論的救済の観念と結合するのか?》、この問題について言及するという遊歩の運び、それはどこに失せたのか?
 いやいや、決して失せてはいないのだ。くりかえし言う。遊歩とは共振に導かれる散歩である。そしてまた寄り道とは共振のなせる業である。かくて、寄り道なき遊歩のあろうはずなし! これもまた言い訳。 

 ショウペンハウアーは言う。――人間とは「山なす波が、猛りつつ起伏している荒れ狂った海上に浮かぶ一艘の小舟」に等しく、世界とは「苦悩」の渦巻き、人生もまた然り。その苦悩の波打つ海上を沈没しまいと必死に押し渡らんする一艘の小舟、それが汝である、と[1]

 また彼はこう言う。最後にはほとんど仏教的な言葉遣いをもって。

――イエスの魂の真髄、彼の教えの真髄は「共苦」にある。そもそも人間とは、悲劇的にも、「個体化の原理」に呪縛され、絶え間なく他者と自己を区別し切り離すことばかりにかまけるという孤独の刑に処された存在なのだ。だからこそまた人間は、常に他者への羨望・怨恨心と復讐欲望、一転して優越心と支配欲望、そのどちらか、あるいはその両極のあいだを振幅することしか知らぬ生、それしか手にできなくなるのだ。いずれにせよ、苦悩の生を。だが、そう指摘したうえでイエスはこう説く。

《忘れてはならない、汝よ! それでも汝はかかる汝の生の裏側に「良心の棘」として他者への「共苦」の魂を隠し持つ。そして、汝のこの「共苦」は或る時、くだんの「海上」にうねる世界苦・人生苦の全体へと大きく打ち開かれ、それと一つになる瞬間を手にするのだ。するとその瞬間、不思議なことが起きる。その汝の宇宙大に拡大された「共苦」は、かの海上の全体を包む「諦観」という宇宙受容へと転換し、しかもその転換は宇宙美への賛仰と連れ立って生じるのだ。君は、「忘我恍惚、有頂天、開悟、神との合一」・「あらゆる理性よりももっと高いかの平安、大海にも比すべき心のまったき寂静、深い安息。揺るぎない確信、ならびに明徴さ」に包まれることになる[2]。あの苦悩の大海原は不思議なことに静謐なる微光に輝く海原に変じているのだ!》

 ショウペンハウアーは言う。――プラトンの「イデア」、カントの「物自体」、ヒンドゥー教と仏教の基礎にあるヴェーダ思想が掲げる「ブラフマン梵天)」、これら3概念は実は同一のもの、すなわち、有機的な相互依存関係に統一された無限の全体的宇宙、「根源的一者」としての宇宙そのものを指す。このことが解れば、イエスの「共苦」を仏陀の「慈悲」と重ね合わせる道が開け、イエスの言う「神の王国」は仏陀の言う「涅槃」と同一の、「開悟」に到達した人間の心の在りよう、境地を指す言葉であることが解る。ショウペンハウアーいわく。「ヴェーダは人間の認識と智慧の最上のものの成果であり、その中心はウパニシャッドという形を成していて、今世紀の最大の贈り物としてついにわれわれにも届けられるに至った」[3]・「ウパニシャッドを介してわれわれに解放されたヴェーダへの道は、このいまだ年若き19世紀が以前の諸世紀に対し誇り得る最大の長所である」[4]。 

 ここで私のゴッホに戻ろう。前回、その結びに、私はゴッホのテオへの手紙から次の一節を引いた。もう一度引こう。

 僕は自画像の中に単に僕自身だけでなく、全般的な意味の一人の印象派画家、永
 遠の仏陀の素朴な崇拝者である或る坊主でもあるかのように、この肖像は考えて
 描いたのだ[5]。 

ところで、この一節は次の一節に深く関連している。ゴッホは、アルルの風景を描く快楽、自分の幸福感に寄せて、次のようにテオに書き送っていたのだ。 

日本の芸術を研究してみると、あきらかに賢者であり哲学者であり知者である人物に出会う。彼は歳月をどう過ごしているのだろう。(中略)彼はただ一茎の草の芽を研究しているのだ。ところが、この草の芽が彼に、あらゆる植物を、つぎには季節を、田園の広々とした風景を、さらには動物を、人間の顔を描けるようにさせるのだ。(中略)いいかね、彼ら自らが花のように、自然の中に生きていくこんなに素朴な日本人たちがわれわれに教えるものこそ、真の宗教とも言えるものではないだろうか。日本の芸術を研究すれば、誰でももっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ。われわれは因襲的な世界で教育を受け仕事をしているけれども、もっと自然に帰らなければいけないのだ[6]

 上の一節を書いたとき、果たしてゴッホが次の言葉、日本仏教に汎通的な汎神論的な有機的宇宙観を一言にて表現する「山川草木皆仏性」という言葉、これを知っていたか否か、それを確かめる手段をまだ私は持っていない。
 だが、上の一節がその実質において語っているのは、ゴッホは日本版画の美意識の根底をなすのはこの「山川草木皆仏性」の宇宙観であることを正しくも見抜き、かつ、それに西欧人は学ぶべきとの立場を取ったということだ。

 ここで次のことを指摘しておこう。すなわち、「色彩の画家」たるゴッホは、眼前する自然の色彩と己の生命に疼く「色彩そのものであるもの」、すなわち生命そのものを「表現しようとする欲求」に取り憑かれた者として、必然的に太陽崇拝主義者でもあったということを。周知のとおり、アルルの風景を描く彼にとって向日葵は太陽の比喩でもあり、黄色は太陽光の色であった。ゴッホはテオに書く。

ここの強烈な太陽の下では、ピサロの言葉や、ゴーギャンが僕への手紙で言った同じような言葉、つまり太陽の偉大なる効果の持つ単純さと荘重さということは、僕もほんとうだと思った。北仏にいたのでは、とても想像することもできないだろう[7]

 いささか私の理解を示そう。
 南仏アルルの強烈な太陽の下では、万物各々の色の印影とそれが生む複雑な差異性は溶け果て、色は単純化し風景は個々物の色彩的差異に複雑に彩られる顔つきを失い、むしろその統一性が色彩の平面化と手に手をつなぎ前景化する。世界のこのアルル的相貌には、日本の浮世絵版画が体現した方法、様々な「平面的な色彩」画面がその「独特な線」で描き出される「運動」的な「並列」を構成することによって、風景の全景を表現するという方法が一番ふさわしい。ゴッホにはそう思える。つまりこうだ。世界は宇宙大の統一性とその有機的構成をはっきりと端的に人間に意識させる顔つきを示すべきなのであり、そのような世界変貌に導かれてこそ、人間は汎神論的宇宙感情を――自分の深層意識に眠り込ませていたそれを――己に喚起することとなり、宇宙と個人とのあいだに汎神論的な感覚共振が生じるのだ。そしてこのような生命感情の宇宙的高揚と共振とを人間に引き起こすということに芸術のいわば形而上学的使命があるのだ。音楽はそれを人間の聴覚に訴えることを通して、絵画は視覚に訴えることを通して、為す。為すべき、なのだ。ゴッホは、実にこの使命について、自分はそれを早くも「印象派運動」のなかに潜む「偉大なものへ向かう傾き」として感知したが、多くの者はそれに気づかず、印象派を「単に光学的な実験のみに限定する一流派」と見誤ったと批判してもいる[8]

  ついでに、ちょっとショウペンハウアーに寄り道しよう。彼のくだんの主著のなかの「太陽」論から次の一節を引いておこう。

没する太陽が夜の闇に呑み込まれてゆくはほんの見掛けだけのことで、実際に太陽は、それ自身がいっさいの光の源泉であるから、間断なく燃え、かずかずの新しい世界に新しい昼間をもたらし、そして常時上昇し、常時下降しているのである。始めとか終わりとかいうことは(中略)個体にのみ関わることでしかない[9]

 つまり、太陽はショウペンハウアーにとって「永遠の生命」・「無限」の象徴なのであり、かくてまた「プラトンイデア」のそれである。
 そして、この観点は実は期せずしてゴッホとぴったり重なるのだ・

 ここで、われわれはゴッホのイエス論に目を向けねばならない。
 そもそもキリスト教を論じようと思うなら、その議論の中心にイエスを如何なる思想の持ち主として把握するかという問題を置かざるを得ない。先に見たように、ショウペンハウアーはイエスを限りなく仏陀に引き寄せようとする。

では、ゴッホは? 彼いわく、

キリストだけが――あらゆる哲学者や魔法使いのなかで・・・・・・永遠の生命の確実性を肯定した。時間の無限を認め、死を否定して、心の平和と献身との存在価値や必要を説いたのだ。彼は平穏に暮らしているいかなる芸術家よりも偉大な芸術家として生きた。大理石と粘土と色彩を軽蔑して、生きた肉体で仕事した[10]。(太字、清)

 そして、こう続ける。――イエスは、「観念(感覚)で本を書くことをよろこばなかったが、話す言葉――特に比喩は、それほどきらわなかった。(種蒔きや刈入れや無花果の比喩の素晴らしさ!)」と[11]。またこのイエスの「話し言葉」を絶賛して、「最高の――一番高い――芸術によって到達し得る神の力のようなもの」、「造物主の偉力そのもの」と述べ、かつその感化力に関連づけて、「生命を生みだす芸術と永遠の生命に化す芸術とがあることを予感さす」(太字、清)と彼は述べる[12]

 ここで読者には先の私の見解、ゴッホは《宇宙と個人とのあいだに汎神論的な感覚共振》を引き起こすことに《芸術の形而上学的使命》を見たという見解を思い出してほしい。また前回紹介したゴッホの自己分析をあらためて思い出してほしい。自分の「二重人格的要素」の一方は「永遠とか永遠の生命とかを考える」・「修行僧」的要素であるという分析を。

 注目すべきは次の問題の関連である。すなわち、上に彼が言う「生命を生みだす芸術と永遠の生命に化す芸術」の創造ことが彼にとっては「芸術の形而上学的使命」であり、この使命は「永遠の生命の確実性を肯定し」、それによって「時間の無限を認め、死を否定し」、もって「心の平和と献身との存在価値や必要」を人間痛感せしめるという課題は、日本の浮世絵版画の方法論に学んで「宇宙と個人とのあいだに汎神論的な感覚共振」を引き起こすことによって果たせると思われたということ、この問題の関連である。

 そのことは次の経緯によっても鮮やかに示されている。いましがた引用した「キリストだけが」という言葉から始まる一節は、エミル・ベルナール宛に書かれた第8信(1888年6月末)の一節であるが、その半月後の第10信(7月中旬)に次の一節がある。
 ――それによれば、ゴッホはこれまでスケッチしたアルルの風景のなかで「一番日本らしいもの」をそのとき2枚ものしたのであるが、それを「この平面的な景色の・・・・・・無限と・・・・・・永遠だけの・・・・・・素描」と呼ぶ。また、それを描いているところへ兵士が一人やって来たとき、彼はこの兵士に素描しているアルルの草原を「海みたいに素敵だと思っているんだ」と声をかける。すると、その兵士は、「海を知っていた」人物であったのだが、「海みたいに美しいんだって、俺はこっちの方が大洋よりも綺麗だと思うよ、人が住んでいるからね」と答えたという。このやりとりをゴッホは記したうえで、ベルナールにこうしたためる。――「この二人のうち画家と兵隊と、どっちの方が芸術家だろう。僕はこの兵隊の眼の方を選ぶよ、そうだろう」と[13]

 この一節には次の4点が明白である。第1に、ゴッホにとってのテーマは、アルルの風景がその現象となる当のもの(ショウペンハウアー的にいえば「物自体」・「イデア」そのもの)たる「無限」なる「永遠」なる宇宙的生命であるということ。第2に、そういう《汎神論的視点》に対して方法論的に最も自覚的なのは日本の浮世絵であるとゴッホが認識していること。第3に、草原に与えられた「海」という比喩は、ヒンドゥー教と仏教の共有基盤をなすウパニシャッド文書が好んで用いた「大洋と小波」の比喩を想起するならば、まさに「宇宙」の無限にして永遠なる生命性の比喩にほかならないこと、このことが明らかにゴッホによって自覚されていること。第4に、ゴッホにとってまさに「芸術家」の使命とは、その宇宙生命と人間との《汎神論的共振》を引き起こすことであるが故に、彼はかの兵士の言葉にいたく感銘を覚えたということ、これである。すなわち、ただ大洋的世界を描くのではなく、まさにその大洋的世界と人間とが取り結ぶ共振の接点そのものをテーマに据えたことにいっそうの美を見たとする兵士の観点に。

 他にも引用したい言葉がある。今回は、もう一つだけ紹介して終わりにしよう。
 ジョットという詩人をゴッホがいたく愛していたことについては前回少し言及した。そのジョットに寄せて自分の抱負について後の別の書簡でこう書く。 

僕はただ誰かに、われわれの心を慰め落ち着かせるものを立証してもらいたい。われわれが自分を罪あるもの、不幸なものと感じることがなくなるように。そうして、われわれが孤独や虚無のうちにふみ迷うことなく、また一歩ごとに悪を怖れ悪に神経を立てることもなしに、生きて行けるように、またその悪が他人の上に落ちかかることを望むようなことがなくてすむように[14]。(太字、清)

 この一節は、ゴッホの次のイエス観とそのまま結びついている。
 彼は、イエスを「にがい果肉」と捉える。旧約聖書に横溢する神ヤハウエの「固い殻」のような「絶望と怒り」に満ちた言葉――「たしかに胸を抉る」にしろ、しかし「偏狭と伝染的な狂気とですべて誇張されている」と言わざるを得ない、それ――に対比して、イエスの発するくりかえし《愛と赦し》を説く「慰めの言葉」は、それら旧約の《裁きと叱咤と戦い》の言葉からわれわれを「解放」する「慰安」の力、「果肉」の力を持つというのだ。

だが聖書の慰めの言葉は悲痛で、われわれを絶望と怒りから解放して――たしかに胸を抉る、偏狭と伝染的な狂気とですべて誇張されてはいるが――そこに包容されている慰安は、ちょうど固い殻のなかの核のようなもので、にがい果肉、それがキリストだ[15]。(太字、清)

  このイエスが体現する「果肉」が先に示したように、ゴッホの理解では、「永遠の生命の確実性を肯定し」・「時間の無限を認め、死を否定して、心の平和と献身との存在価値や必要を」自覚することによって味わえるようになる「果肉」であることはいうまでもない。つまり、ゴッホ自身が自らの絵によって鑑賞者の魂のなかに引き起こそうと専心する《宇宙生命と人間との汎神論的共振》と一つに繋がった「果肉」であることは。
 そして私としては、読者にお願いしたい。上の一節を、冒頭に紹介したくだんのショウペンハウアーの言葉に重ね合わせていただけないか、と。

 ここでついでに次のことも指摘しておこう。
 『ゴッホの手紙』に集められた書簡は1887年から1890年にかけて書かれたゴッホの書簡である。ところで、ニーチェは『反時代的考察』に第3篇として「教育者としてのショーペンハウアー」という有名なる長文のショーペンハウアー論を発表したが、それが書かれたのは1874年であった。そして、ニーチェ1888年に出版した『ニーチェヴァーグナー』のなかの「ヴァーグナーの所属すべきところ」節のなかにこう記した。

現今でもなおフランスは、ヨーロッパの最も精神的な最も洗練された文化の本拠であり、趣味の高級な訓練場ではあるが、(中略)そこでは今日すでにショーペンハウアーは、彼がかつてドイツにおいて居着いていた以上に居着いている。彼の主著はすでに二回翻訳され、第二回目のものは卓抜な出来栄えであったので、私はいまではショウペンハウアーをむしろフランス語で読むことにしている[16]

 また前回言及したようにゴッホは「トルストイの宗教論」に大きな関心を持っていたのだが、しかもその関心はまさにかの「永遠の生命」(「人類」としての「生命」)への参与が生みだす苦悩の只中での「慰安」というテーマをトルストイも共有していることにかかわっていたのだが[17]、そのトルストイは熱烈なショウペンハウアー賛美者でもあった。
 こうした点から推して、かの読書家ゴッホが既にショウペンハウアーの同書を読書していた可能性は大いにある。ただし、今のところ私には確かめる術がない。しかし当面、《期せずしての一致》という形にしておいて両者のあいだに成立する類似性を探索してみればよい。この探索作業は、まさに両者それぞれをいっそう深く理解するうえできわめて有意義なこと間違いなしである。そう私は思う。

 さて、最後にもう一つの寄り道、小林秀雄の『ゴッホの手紙』について一言。
 私は発見した。これまで縷々述べてきた問題、《宇宙生命と人間との汎神論的共振》の発揮する救済力というテーマこそゴッホの芸術観の核心をなし、またそれが日本の浮世への絶大な彼の評価を生みだすという問題、実にこれに関しては小林はほとんど真剣な関心を示していないということを。
 乞うご期待! 次回の遊歩報告を。(清眞人)

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[1] ショウペンハウアー『意志と表象としての世界 Ⅲ』西尾幹二訳、中公クラッシクス、103頁。
[2] 同前、240、242頁。
[3] ショウペンハウアー『意志と表象としての世界 Ⅲ』109頁。
[4] 同前、255頁。
[5]ゴッホの手紙 中』295~296頁。
[6]ゴッホの手紙 上』274頁。
[7]ゴッホの手紙 下』44頁。
[8] 同前、52頁。
[9] ショウペンハウアー『意志と表象としての世界 Ⅲ』134頁。
[10]ゴッホの手紙 上』118頁。
[11] 同前、120頁。
[12] 同前、120頁。
[13] 同前、132頁。
[14]ゴッホの手紙 中』281頁。
[15] 同前、117~118頁。
[16] ニーチェ『偶像の黄昏 反キリスト者』、原佑訳、ニーチェ全集14、ちくま学芸文庫、365‐366頁。
[17]ゴッホの手紙 中』269、286頁。

正さんのお遍路紀行(四国・香川編)その4

涅槃の道場 ~6日間で香川を歩き、結願をめざす~

【4日目】3月18日(水) ~五色台に残る旧遍路道を歩く~

宿発 7:50 ⇒(7km)⇒ 81白峯寺 10:10 ⇒(5km)⇒ 82根香寺 12:10 ⇒
(13km)⇒ 83一宮寺 16:50 ⇒(1km)⇒ 宿着 17:50

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          白峯寺に向かう山道にて(国分寺町を見下ろす)

 体が慣れるどころか疲れがたまる一方で、しかも歩き出してからほどなく腹も痛くなってきた。白峯寺までの6kmはずっと登りだったので、ほんとにしんどかった。時々視界が開けるので写真を撮ったりして休み休み上を目指した。そういう状態で急坂にさしかかったとき、突然仕事場から電話が入った。急用かと思いきやそうではなかった。それをありがたいと思うほどの余裕もなく無下にバチッと切った。現実に引き戻された瞬間だったが、自分の現実はこっちだ。がんばろう。

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  空と一体となった 81番白峯寺        イノシシ注意が出ている

 まじめに読んでみた。①逃げてはいけない②追い払うような行為はしない③さりげなくやり過ごす 何たって一本道だもんなあ・・・・・・熊よりはいいか。

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    根香寺への道

 さほどのアップダウンもない尾根歩きだったので気持ちよかった。

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    82根香寺回廊

 本堂はどこかと探していたら回廊を通ったその先にあった。回廊にはたくさんの吊り灯籠があり、ほのかに火が灯されていた。中国や台湾のお寺の雰囲気がした。

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         オーストラリア人と遭遇

 山の上に五色台みかん園というところがあった。そこは三叉路になっていて、左に下ると根香寺、右は次の一宮寺へと続く山道。お遍路さんの休憩所にもなっていた。根香寺からヒーヒーしながら登り返してきたら、二人の外人さんがお昼を作ろうとしていた。奥さん(?)と目が合ってしまい、つい「ハーイ!」と声をかけたら休んでいけというような感じだった。片言でやり取りすると、二人はオーストラリア人で、すでに3ヶ月も四国を巡っているとのこと。お遍路が目的というよりは、四国の自然がこよなく好きだと教えてくれた。いわゆるバックパッカ-。内心、仕事どうしてんだろうとか思ったが、それは聞けなかった。楽しみ方が違うんだよなあ。君は日本のどこから来たんだい?と聞かれたような気がしたので「My hometown is Miyagi prefecyure」と、やっと言ったら、「I don't know. 」だって。そりゃそうだな。東日本大震災津波を並べたら、すぐに分かってくれた。この二人、来年の夏はシドニーからヨットで日本に来る計画を立てているとも言った。そうして、自分のヨットが写っている名刺をくれた。何者なんだいったい?でも、とても気さくで、ハーブテイーまでごちそうになった。四国にはいろんな人がいるもんだと思った。

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  トウカイ桜かな?           車道から遍路道

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      高松方面の海が見える

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    83番一宮寺山門

 根香寺からの下り5kmは山の中なので歩くのは楽しかった。でも、その後の7kmは平坦地であるにもかかわらず遠かった。街の中や民家の裏道も生活感が見えていいのだが、街になればなるほど道標や矢印が不親切で、結構時間がかかってしまった。もちろん疲れもあるのでかなりペースは落ちている。お参りしたことを証明する意味で書いてもらう納経所は5時までと決まっている。この日は、その時間との闘いだった。一宮寺に着いたのは終了10分前。普通通りにお参りの儀式をしていたのでは間に合わないので、最初に納経帳に書いてもらい,それからゆっくり拝むことにした。大師堂から “ がんばったな ” と言われたような気がした。