mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

コロナな日々と、猫のクリ

 ワガハイは猫である。名前はクリ。ここで暮らしてしばらくになるが、恥ずかしいことに自分の年齢はわからない。先日、客と玄関で立ち話をしている主人の足元に座っていたら、客が突然「ネコちゃんの歳はいくつ?」と言った。どうして急に歳などを聞いたのかはわからないが、(歳なんてどうでもいいじゃないか)と思ってその場を立ち去りかけた時、主人が「17~8ぐらいかなあ。だから、人間で言えばオレと似たようなものじゃないですかね」と言ったのが背中から聞えた。ずいぶんいい加減な言い方だが、それで自分の年令は「17~8」で、人間で言えば80前後ということを初めて知った。まあ、どうでもいいことだが、年寄りのワガハイは年寄りの主人と暮らしているということになるらしい。

 これまで、どこに出かけているのかわからないが、しょっちゅう家を留守にしていた主人はここ数年、家にいる日が年ごとに増えており、最近は、家を空けることがめずらしくなった。(おっ、めずらしく出かけたな!)と思っても短時間で野菜などを持って帰ってくる。出かけなくなったのも歳のせいなのかもしれないな。そういえば、ワガハイも外の徘徊時間はめっきり少なくなっているから、どうやら年寄り同士で住んでいることは間違いない事実のようだ。

 外の徘徊も楽しみのひとつにはなるが、ワガハイの古くからの最高の楽しみは、朝、2階の出窓に座ることなのだ。出窓は棲み処の東側についており、団地のゆるい坂道と並行している。
 この2階から見下ろす坂道がワガハイの楽しみをつくってくれているのだ。それが、なんで「朝」なのか。そう、その時間にランドセルを背にした子どもたちが元気のよい声と一緒に登ってくるからだ。中には、黙々とひとり速足で登っていく子もいるが、いくつかのグループがあまり間をおかずに登ってくる。騒ぎながらジグザクと歩き、奇声をあげるのもいる。大人は何人通ってもこんな光景はまずないし、子どもたちの帰りは朝とは違ってバラバラで賑やかではない。人間の子どもたちってどうしてこんなにおもしろいんだろう。学校って楽しいところなんだろうなあ。学校へ行く子どもたちの様子がとても大事だなどとは誰も言わないようだが、見ていると、なんともうらやましい姿に見えるのだ。
 子どもたちの通る時間はちょうど食事時と重なることがある。そのときは、食事中であっても途中で2階に駆け上る。見逃してしまっては一日中晴れやかな気分にならないからだ。

 それが、今年の春先あたりから異変が起きた。子どもたちの姿も声もパタッと切れてしまったのだ。何も知らないワガハイは、相変わらず出窓で待ちつづけ、「今日は何かあったのだろう」と下に下りる。翌日も駆け上るが子どもたちは姿を見せない。「今日も何かあったのだろう」と、すごすごと下りる。
 なんと、何日経っても子どもたちは現れない。楽しみがなくなっただけでなく、子どもたちのことが心配になってきた。

 ワガハイの1日は、出窓で過ごした後は、午前午後に散歩をし、それ以外はもっぱら寝ることに決まっている。それだけに、元気に楽しげに学校へ向かう子どもたちを出窓から眺める時間はどんなに貴重な時間か。それ以外は、ほとんど食事を待つだけのフヌケタ時なのだから。そのもっとも大事な時が空っぽになってしまったのだ。

 毎日、ジッとしている主人はテレビを観る時間が多いが、そのテレビから数えきれないほど繰り返し聞えてくるのが「コロナ」という音だ。主人は「みんな家にこもっているのだ」とも言っていた。子どもたちの姿が消えたのも、この「コロナ」というもののためだったのだ、きっと。いつまでつづくんだろうな。

 最近、主人がブツブツ独り言を言っていた。「セイジカノ テイタラクハ アマリニヒドイ。オレタチ ヒトリヒトリヲ スコシモ カンガエテイナイ。ナニガ ヒジョウジタイセンゲンダ。ソウイッテイナガラ コッカイハ ケンサツカンノテイネンエンチョウシンギダッテ。バカニスルナ。ナガタチョウハ ニホンデナイノカ。コクミンノ ダイタスウハ コロナカヲ ハヤク シュウソクサセヨウト イロンナガマンヲシナガラ マイニチヲ オクッテイルジャナイカ。オオキナコトヲ イイナガラ コクミンノ コエヲ ドレダケ シンケンニ キイテイルカ。トランプト コロナモンダイデ デンワカイダン? ワラワセルナ ・・・」

 主人のブツブツはまだまだつづいた。主人のこんな姿は記憶にない。よほど腹を立てているらしい。ワガハイは、こんなことはとても困る。どうしていいかわからない。できるのは無理してすり寄るぐらいだ。

 とにかくワガハイは1日も早く、出窓から元気な子どもたちの姿を見たい!
                               ( 春 )