mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

ナヤンデルタールで、お悩み解決・・・?(その2)

 前回の「モチモチの木」に続いて、今回は「大造じいさんとがん」です。全体で12時間扱いの「大造じいさんとがん」の指導計画案をもとに話し合をしました。
 以下、話題提供者からの提案と、それをもとに話し合われた幾つかのテーマについて紹介をします。
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★『大造じいさんとがん』の授業をどう構想するか

①前語りの取り扱いについて
 前語りというのは簡単にいうと、「イノシシ狩りのあと,そこに集った狩人仲間が、栗野岳の大造じいさんの家に集まって、いろりを囲んでこれまでのいろいろな猟の話を聞いています。わたし(椋鳩十)はそこで話された『35、6年前のがん狩り』の話を土台にして、こんなお話を作ってみました。山家の炉端を想像しながらお読みください。」と、読み手を誘う文のことです。この前語りは東京書籍の教科書にはありませんが、光村図書の教科書には掲載されています。

《提案1》
 35、6年前ということは、大造じいさんは「じいさん」ではない。それなのに作品に出てくるのはじいさんになった大造さん。子どもたちは、そのことで混乱するかもしれないので、前語りを扱わない方向で考えている。

《出された意見・考え》
◆「わたしは,その折の話を土台として、この物語を書いてみました。」とあるのだから、必ずしも青年の大造じいさんでなくてもいい。もし混乱しそうになったら、先生が話してやってもいいのではないか。この前語りは、《さあ、どんな狩りの話になるのでしょうね》と誘いかけている文なので、ぜひ扱ったらよいのでは。

◆35、6年前の話をつい昨日のことのように生き生きと話す大造じいさん。聞いていた私(作者)は、目の前の大造じいさんが喜々として残雪と闘う様子が浮かんでしまったのではないか。作者はそう語っているじいさんのまま登場させたと思えます。それほど語り口が面白かったのでしょう。

②残雪を狙っていないのではないか。とすると何をしたかったのか。
《提案2》
 二の場面《たにし作戦》の中では「あの群れの中に一発ぶち込んで、今年こそは目にもの見せてくれるぞ。」と言い、三の場面《おとり作戦》の中では「あの残雪めに、ひとあわふかせてやるぞ。」と言っている。これは、残雪そのものを仕留めるというより、残雪の知恵を打ち破りたい、狩人としてのプライドを見せつけたいということなのではないか。

《出された意見・考え》
◆え!残雪を狙ってないの! そんなことどこで分かるの?
◆う~む。残雪の頭領としての知恵や統率力を打ち破ることが、じいさんの最大の目標だから、残雪を含む群れだな。だから,意図的に残雪を狙っていないということではない。ここに書かれていることは、これまでさんざんやられてきた残雪の能力を貶めたいと意気込む大造じいさんだ。
◆ちょっと待って。大造じいさんの目標が残雪の知恵を打ち破ることだけでいいの? 大造じいさんは狩人でしょ。残雪が来る前みたいにがんを取ることが最大の目標でしょ。狩人だよ、それで暮らしてるんだから。
◆なるほど、納得。打ち破って、がんをこれまでどおり仕留めるのが目標だな。打ち破って満足しましたではなく、その先もあるということだね。
◆ん~、そうなんだけど・・・。今はとにかく残雪の知恵を越えたいという一心のような気もするなあ。残雪が来てからというもの、一度たりとも大造じいさんの射程距離に入ったことがない。「一発ぶち込んで」は、この間の大造じいさんの悔しさが込められているように思うが。だから、誰に当たろうが当たるまいが射程に入ったら群れ目がけて一発ぶち込みたいと思っている。それが達成されれば、おのずとがんは手に入るということなのではないかな。

③「が、何と思ったか、また、じゅうを下ろしてしまいました。」をどう扱うか
《提案3》
 「何を思ったか」は、大造じいさん自身わからなかったのではないか。ここでは、大造じいさんの気持ちなどは問わない。後書きのところで「おれは、ひきょうなやり方でやっつけたかあないぞ。」と言ってるから、あそこで撃っていたら「ひきょうな」ことになってしまっていたなあ、と振り返っている。その時に、第六感的なものが下ろさせたのではないかと分かると思うので。

《出された意見・考え》
◆大造じいさんは、おとりを使う方法でやっつけようとしていた。でも、ここで撃ったら思い描いていたやり方と違ってしまう。それは納得できることではない。それで下ろしたのではないかと思う。
◆そこまで考えてたのかなあ?
(※  他にも意見や・考えが出されたように思うが忘れました)
 
 ここでの話を聞きながら思った。残雪が空を横切ってやって来たとき、大造じいさんは非常に驚いた。なぜ再び現れたのかは、この時点では把握できなかったはず。でも何だかわからないけど今なら撃てると、体が動いた。撃とうとした瞬間、違和感を感じた。あんなに人を寄せつけなかった残雪が、無防備にも自分から射程に入ったのだ。ここ数年、残雪と闘ってきたじいさんだからこそ感じた違和感ではないだろうか。
 これはあくまで私(まさ)の考え。提案者は扱わないという方向を話してくれたが、参加者はそのことに触れずにもっぱら「なぜ下ろしたのか」の自論を話したくてしょうがなかったようだ。

④2時間目の場面分けは必要なのだろうか
《提案4》
 場面分けにより、作戦と結果を確認しながら、物語のあらすじをつかませたい。この後の読み取りの土台になることを願って。

《出された意見・考え》
◆1時間目の教師の範読によって、およその話はつかめるのではないか。あらためてあらすじを追うよりも、話の内容に入っていた方が子どもたちは面白がるように思うのだが。それに、あらすじをやることで、その後の読み取りが豊かになるとも思えない。
◆場面と場面の関係が見えていた方が全体を捉えやすいということはある。でも、この作品は初めから場面が別れているし、その関係性をこの段階で求めなくてもよいのでは。
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 土曜の午後5時まで、「モチモチの木」と「大造じいさんとがん」の授業づくりについてじっくり話し合いました。みんなで話し合いをすると、今までわかってると思っていたことが実はあやふやでわかっていなかったことに気づかされたり、まったく気にとめていなかったところが大事だったりと、作品世界がどんどん広がっておもしろくなっていきます。同時に、そのことが新たな授業づくりの悩みにもなったりしますが・・・。
 他方で学習会では、授業スタンダードの導入で授業内容を同じやり方でやらなければならないなど授業の進め方が事細かく決められていたり、教材の入れ替えがまったく許されないなど、授業の中身や方法が画一化されて、教師としての思いや考えを大事にした授業づくりができにくくなってきている今の学校現場の状況についても話になりました。そのような話を聞くと、今の学校の中でどれだけこのような学習会が意味をもつのか?役立つのか?と思ったりもしますが、少しでも授業に役立ててもらえればと思っています。