mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

なぜ、教育の「無償化」が必要なのか

 diaryで、「学校給食の無償化を実現する仙台市民の会」(実現する会)のスタート集会についてはすでに簡単に報告しましたが、「仙台の子どもと教育をともに考える市民の会」代表として呼びかけ段階から準備をし、現在は「実現する会」の共同代表の一人でもある須藤さんが、学校給食無償化への思いを寄せてくれましたので、以下に掲載いたします。なぜ「無償化」なのかという理由とともに、無償化の実現がひらく可能性についても触れてくれています。是非お読みください。
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   ~ 学校給食の「無償化」を実現する
        仙台市民の会の立ち上げ ~

1.市民とともに歩む運動をめざして
 私たち、「仙台の子どもと教育をともに考える市民の会」(以下、市民の会)が呼びかけた「仙台市内の学校給食の無償化を実現する」運動がスタートした。
 昨年、初秋の頃だったろうか、市民の会の事務局会議でSさんが「俺たちの運動、『市民』はどこにいるんだろう?」と、静かに、つぶやくように発した一言を、私はとても大きな問題提起と受け止めた。

 最近の私たちの活動はどちらかというと仙台市の教育行政に物申すことに収斂していた。以前に遡れば「学校統廃合」やいわゆる「学校選択制」を阻止する運動に取り組み、市民的な広がりの中で一定の成果も得てきたと自負してもいる。
 近年では学力テスト問題しかり、定数を満たさない教員数の問題しかり、デジタル教材のこと等々、今、突っ込みどころ満載の教育行政に異議申し立てすべきは後を絶たない。しかし、私自身、最近の活動の中に市民的広がりを作れて来たかどうか、課題にも感じていたので、Sさんの「つぶやき」を、まっとうなものとして受け止めたのだった。行政をただしていくことは大切な役割だが、何がどのように問題なのかを市民とともに共有していかなければ、本当の意味での教育を変える運動にはなりえないと思うからだ。

 まずは、子育て世代の市民がつどう「教育を語る会」の復元・復権をめざそうと、2月には「教育カフェ」を開催した。次につながる楽しい、意義ある集会にできたと思う。さらに、広く市民的な力の結集が必要な「給食無償化」の運動を起こすことはどうか、話し合った。

 貧困と格差が広がる中、追い打ちをかける昨今の物価高もあって、全国各地、県内のいくつかの自治体での「無償化」に向けた取り組みにも背中を押されて、準備会を重ねた。
 先行している自治体では首長や議会の「決断」によるところが多いと耳にするが、それらは時に選挙対策であったり、首相自身が「異次元の子育て支援」を語るほどに深刻な少子化進行の中、わが町に子育て世代を呼び込む施策であったりの様相が見て取れた。トップダウンといわれるものだが、市民的・社会的要求が彼らをそう動かしていることは自明である。
 私たちは、そうした市民的要求を可視化し、市民の手で広げる運動を進めること、無償化の実現を獲得する道筋そのものが、子育てや教育の社会化につながることを願って、子どもや食に関わりの深い団体を中心にお誘いして、「給食の無償化を実現する仙台市民の会」を立ち上げるべく意見交換を重ね、4月15日、スタート集会を持つに至った。

 運動、特に署名運動を進めるには「機運」というものは否定できない。貧困と格差の広がりの中で少子化に拍車がかかるのは当然の成り行きだし、加えて、物価高騰が子育ての困難さを増しているという背景がある今、社会的コンセンサスを得るチャンスであり、市議会でも、与野党を超えて「無償化」に踏み出すべきとする会派が多数を占めている今を逃さずにということもある。

2.なぜ教育の無償化が必要なのか 
  ~「権利としての教育」を獲得していくために~
 スタート集会では宮城教育大学の宮澤孝子先生に「教育の無償化と学校給食」と題してご講演をいただいた。図らずも、4月29日に開催された「民主教育を進める宮城の会」の総会記念講演での千葉大学の福島尚子先生のお話も「隠れ教育費」-無償化している授業料や教科書代以外で、家庭の負担になっている「学校にかかわる教育費」がどれだけあるのか、どう考えるべきものなのかという内容であった。お二人の講演はまさしく、今私たちがとりくもうとしている運動をわかりやすく理論づけていただいたこととなり、運動への確信と展望を深めることができた。

 運動は当面、仙台市の小中学校の給食費無償化を求めるものであり、当然ながらそれは憲法26条「義務教育はこれを無償とする」に根差したものである。しかし、お二人の講演からは、なぜ「給食が無償化されるべきか」という問題を糸口に、義務教育いう枠にとどまらず、なぜ、「教育の無償化」を求めるべきなのかを深く学ばせていただいた。
 宮澤先生によれば、憲法制定当時、当初の26条案には中等教育・高等教育も含まれていたが、義務教育に限定された経過があったという。
 ねざすべきは、憲法が定める「生存権」であり「教育の機会均等」であり、教育基本法がめざす「人格の完成」であり、子どもの権利条約が言う、学ぶ権利、育つ権利、守られる権利、ひいては余暇の権利なのだ。このような地点から考えれば、教育・子育てをめぐる政治や行政の施策に所得制限、いわば応能負担の考え方を入れるべきではないということもよくみんなの理解になったと思う。

 準備会での議論の中では、すでに生活保護や就学援助を受けていれば給食費は免除されるから(困窮家庭への手当はされているのだから)「無償化」の必要性はどれだけあるのかという意見もあった。かねてより、私の中での公教育の定義は「誰でも、いつでも、どこでも等しく受けられる教育」であったから、私たちの要求は当然「すべての子どもたちに」であるべきことを説明した経過があったが、今回の学びの中でさらに理解が深められたのではないだろうか。

 「無償化」がはらむ問題として、給食内容について家庭や市民がもの申すことが阻まれてはならないということがある。教科書の無償化が、検定の強化をもたらしたような轍を踏むわけにはいかない。それぞれの学校の中に、保護者と学校とで給食内容について意見を交わし合う機関というか、仕組みを恒常的にもうけるなり、監視し提案することも不可欠だろう。高学年や中学生なら子どもたち自身の感想や意見を反映できる仕組みも保障されるべきだろう。

 給食は教育の一環とされているのは食育基本法にも明らかであるが、宮澤先生によれば、2005年改定の食育基本法のなかには「伝統文化の尊重」と記してあり、2006教育基本法の改定を先取りしているという。栄養教員向けの研修内容の中には、地域の産物をいかした(地産地消)を郷土愛とつなげるような記述もあるという。ここまで周到に一定の国家観を持ち込もうとしていることに今更ながら呆然とさせられる。

 講演でも触れられていたが「給食時間の短さ」なども、あまりにも貧しい食文化の表れであるし、教師の労働条件としての問題にもつながる。また、パートタイム的な給食をつくる人の労働者としての権利保障なども放置しておいて、真に豊かな給食を目指すことにはならない。「給食という文化」としてみていく必要も考えさせられている。

 宮澤先生が結びに述べられたように、給食という一つのテーマには、親であろうとなかろうと、教師であろうとなかろうと、子どものことを社会みんなの問題として考え合う大きな可能性があり、生産者や一次産業に従事している方たちも含めて、当事者性も広がりが持てるものだ。スケールの大きな運動にしていけるよう、広く知恵と力を合わせて取り組んでいきたい。ぜひ、署名活動へのお力添えを。
 

        仙台の子どもと教育をともに考える市民の会 代表運営委員
         学校給食の無償化を実現する仙台市民の会 共同代表
                                須藤道子

《ネット署名》は、こちら👇  から

 宮澤孝子先生の講演内容は下記のYouTubeで公開している。学習資料としてもわかりやすく、秀逸である。ぜひ、様々な場でご活用いただきたい。