mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

思い出すこと5 出会い

 昨日diaryで、夏の「全国作文教育研究大会」に向け、「宮城作文の会」のみなさんが奮闘していること、また研究センター事務局の三代さんもその中心を担って日々走り回っていることをお伝えしました。

 今回、diaryに原稿を寄せてくれたのは元研究センター所長の春さんこと、春日さん。実は数日前に三代さんが、全国大会の講座の一つ「生活綴り方の理論と歴史」の報告者を急遽お願いしたそうです。ところが春さん「もう歳だし、俺の話なんか役に立たない」と固辞されたとのこと。でも宮城の戦前からの生活綴り方について話しができるのは春さんぐらいでしょう。どうにもこうにも、なんとか春さんに引き受けてもらわなくてはと粘りに粘った三代さん。最後は「春日先生、わたしは春日先生からのお願いを断ったことは一度もありませんよ」と、伝家の宝刀を引き抜いた?そうです。これには春さんも、参ったようです。
 昨日、春さんに電話をすると「確かに生きてる人間で話せるのは俺ぐらいになってしまったからなあ。引き受けるしかないよなあ」とのこと。春さんも、夏の大会に向け、報告の準備に忙しくなりそうです。東北の生活綴り方に興味関心のある方は、またとない貴重な機会ですよ。ぜひ、参加して話を聞いてくださいね。

 以下は、そういう春さんの教師として生きる原点の一つが語られています。
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 教員生活の4年目はY中学校で始まった。Y中に希望しての転任ではなく、少々の曲折があっての着地だった。それでも、「中学校という希望」だったので、私にとってはこれでよかったのだ。しかも、3年間ノホホンと何も考えることなく暮らし続けていた “ 給料泥棒 ”と言われても返す言葉のなかった自分が、後で自分の道を振り返ると、Y中への着地がなかったら私の教員生活はどうなっていただろうと、辞めて20年を超す今になるも、“ 運がよかった ”としか言いようのない場に着地したのだ。端的に言えば、Y中が仕事の場になることで、私を揺さぶり動かすいろんな人に出会ったのである。
 しかも、Y中にいることでY中の仲間だけでなく他の教師仲間の刺激を受けることができた。もちろん、仕事を通して、多くの子どもたちや親たちから育てていただいた。

 Y中は1学年4クラス。私の1年目は2年生担任で、学年主任はSさんだった。Sさんは30代後半で、他はみな20代でなかったかと思う。私自身は生徒と10歳しか離れていなかった。みんなでよく仕事を語り合い、生徒を語り合った。もちろん、生徒ともよくしゃべった。

 ある日、空き時間が一緒だった時、何かの話をきっかけに、Sさんがこんなことを話してくれた。

 私は、仙台の工業高校を卒業という時に、この学校の校長から「私の学校の教員にならないか」と誘われた。校長が言うには、「教員の免許は、勤めながら取得すればいい」と。急な話であったこともだが、工業校であり、教職など考えもしなかった話である。頑固で有名な校長ということを知らない人はいなかったので、返事に窮した。しかし、相手の勢いに押されて、そのまま、教職に就くことになった。
 戦後、新制中学発足の頃、教員不足でこんなふうにして学校は人集めをしたのだ。生徒の方は、誰もが中学に入るというので元気がよく張り切っていた。私は社会科を担当させられた。
 あるとき、生徒のひとりが土器のかけらを手にして、「先生、これは土器だと思うがいつごろのものですか」と聞いてきた。私は見ても答えることはできなかった。「わからない。調べてみるから、待ってくれ」と言ったが、調べようもない。それで、東北大学の豊田武先生の研究室を訪ねて教えてもらって、生徒には答え、私は、その後しばらくの間、放課後、お願いして豊田研究室に通った。~~

   Sさんは、この頃、近隣の考古学研究ではリーダーになっていた。その考古学研究に入るきっかけは、生徒の拾ってきた一片の土器のかけらにあったと言う。
 実は、2年生4クラスの社会科の授業は、Sさんと私が2クラスずつ担当していた。いいかげんな授業をしていた私は、話を聞いて大いに恥ずかしくなり、聞きながら私は受け持つクラスの生徒の顔を一人ひとり思い出していた。
 その後、何度か、Sさんの調査のお供をさせていただいた。同じ町内である前任地のT小学区に残る円墳にも行ったこともある。何も知らずに過ごしてきたことを恥ずかしく思った。

 Sさんの話を聞きながら、私の中学時代の恩師M先生も浮かんできた。M先生は中学の3年間クラス担任をしていただいた。よく本を読んでもらった。吉川英治の「宮本武蔵」もその中の1冊だ。お通の姿は今ものこる。また、威勢のいい流行歌が歌われる中で、それらに対抗するかのように「椰子の実」や「埴生の宿」など、たくさんの歌を教えていただいた。
 そのM先生が、私たちの卒業時に学校を辞めると言ったのだ。先生は師範学校を出ていたが、大学に入るためという。その後、私が大学生の時、大学を卒業したM先生が教職に戻ったということが郷里の友人から伝えられた。私がM先生にお会いできたのは、私の退職後、友人の案内で塩釜のお宅を訪ねた時だったが、退職し大学に行ったことについて問うことはしなかった。問う必要はなかったからだった。
 Sさんの話を伺いながらM先生の事が浮かんだのは、教職に向かう根にお二人の共通の姿勢を感じたからであり、情けないことに、Sさんのお話をうかがうことで、教師としてのお二人の共通した姿勢を感じていたからだった。

 Y中での数々の出会いについては、今回はSさんだけで止めておく。Sさんについても、これだけでなかったことはもちろんである。( 春 )