mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

宮崎典男、ある戦後教師の歩み(2)

 宮崎先生の「教育文化」への連載「自伝的教育論」は70回つづいた。終回は、「やぶかれたズック」と題し、「あとがきにならないあとがき」の副題をつけた。姫松小学校の校長菊池譲さんについて書くことで、この連載を閉じたのだ。
 菊池校長は季刊雑誌『国語教育研究』の主宰者。宮崎さんが、県南の斎川小から県北岩手県境の姫松小への異動は、菊池校長の学校を希望してのものだった。
 この「あとがきにならないあとがき」のなかに、福島土湯の宮崎先生のもとに届いた菊池校長からの手紙が紹介されている。

 世の中には、与えられた道をまっすぐに間違いなく行く人もあれば、自分で自分の道をまがりくねって行く人もあります。君は後の方に属する人です。そのどちらがいいともいわれませんが、自分の良心に生きる人こそ、最も生き甲斐のある人生を生きることになりましょう。(中略)福島に就職ときいて、「ああよかった」と家内もよろこんでいました。信夫郡土湯なんてまるで見当もつきませんが、君にとっては教育に再出発の新しい天地です。その目でよくよく見つめ、その鼻で全身に空気を吸い込み、その足でその土地をふみつめなさい。
 ああ、わが人生よ、と、センチにもなるでしょう。宮城県などに帰ることなどは考えず、福島県の先生として、逞しく生きてください。(後略)

 宮崎先生は、「譲先生については語りつくせない」と書いている。県北に追いかけた気持ちがよくわかる。菊池校長は、福島であっても宮崎先生が教職にもどったことを本当に喜んだのだ。その裏には、教職から離れた4年間をどんなに心配してかも読みとれる。

 この連載が終えた直後、なんとか単行本にして多くの方に読んでもらいたいと思った私は、宮崎先生に断りなく、知り合いのA出版社常務のYさんに電話をし、盛岡での新しい企画の会議の前に、話し合うことを決め、宮崎先生にも同行してもらった。内容のおおよそについては知らせてあり、Yさんも前向きだった。
 「この文量は、ふつうの教育関係書だと3冊本になる。しかし、3冊本だと2冊目3冊目となるにしたがい、どうしても売れなくなるので、できれば、文量を少し減らして1冊本にするのがいいと思う」とYさんは言う。
 「宮崎さん、ということで、少し減らして1冊にということでいいですか」と私が言うと、宮崎先生は「削るのは嫌だ、絶対できない」と体を固くして言うのだ。私は大いにあわてた。これでは、せっかくまとまりかけた話が壊れる。何とか切り抜けなければならない。私はあわてて「宮崎さん、自分で削るというのは辛いと思うから、その仕事を私にさせて!」と、できもしないことを言った。
 文章の上手な先生は、家にお邪魔するといつも書きものをしている。書いたものはいつも、推敲の跡がすごい。その方に「削れ」は酷な話だし、そうやって生み出された文を「私に削らさせて」など、とんでもない無礼な話だ。無礼と思いつつ私は、この話を壊してはならないと必死だった。すると宮崎先生は、低い声で「いい」と言った。先生はどんな思いで私に任せると言ったのだろう。今思い出すだけでも私は恥ずかしくなるが、その時は、自分にできるできないは考えることなく、単行本にしてもらうことだけをただただ喜んだ。

 後日、Yさんから電話があった。Yさんは「削ることなく、あのまま1冊にしよう。オレたちは、損しないようにとばかり考えてはダメだよな。損しても世におくらなければならない本だってあるのだから・・・。」と言ってくれた。Yさんは宮崎先生の文を私の力で削るなんて無理だということを見抜いたのだろう。私はホッとし、Yさんに感謝し、これからは担当者と宮崎先生との直接の話ですすめてもらうようにYさんに話した。
 84年10月4日、小さな活字で2段組み、400ページを超える本ができあがった。書名は、『教師 そこまでの道』で、「自伝的教育論」は右肩に小さくついた。

 ところで、なぜ宮崎先生が、「願に依り本職を辞する」の辞令を手にすることになったのかについて、どうしてもふれておかなければならない。
 宮崎先生は、1946年、岩沼小学校勤務になり、そこで、鈴木道太さんとの偶然の出会いをする。戦中の綴方教師として逮捕され3年半の刑を受けた道太さんは、出獄後、現場に戻らなかった。その道太さんが、講演のため岩沼小に来たのだった。2人はしばらくぶりの出会いを喜ぶと同時に、その場で「カマラード」の復活を決めた。(いつか時間が許せば、道太さんについても語らなければならないと思っているので、ここでこれ以上のことは触れない)。
 2人の話し合いは間もなく実現する。佐々木正さんによって編集され、4号(1937年9月19日発行)で終わっている「カマラード」につづく形で、宮崎さんの手で、第5号「カマラード」(1946年7月21日発行)として姿を現した。

 「カマラード」の変遷についても別の機会にふれることにして、話を宮崎先生にもどす。先生は、1949年、県教育研究所勤務になり、籍は仙台市連坊小路小学校におかれる。
 その年の9月のこととして、『教師 そこまでの道』に、以下のような記述がある。

 わたしが、辞職願を教育研究所、所長事務取扱に提出したのは、昭和24年9月のある日であった。宮城県教育委員会教育次長でもあった高山政雄は白皙の顔面の表情をうごかすこともなくわたしにいった。県教委の下部機関である県教育研究所の所員が教育委員の非行を公然と告発することは許せないという一点であった。わたしは、わたしにかかわることが、累を「カマラード」の会員におよぼすことがあってはならないことを要望した。高山氏は、それをとうぜんであると承認した。(後略)

 ここで次長が言う「研究機関の下部機関の所員が教育委員の非行を公然と告発する」とは何だったのか。
 宮崎先生は、これに関して、ある教育委員の情報をとりあげたあとに、「すべての基本的人権をうばわれ、支配者の手先としてのみしか生きることをゆるされなかった日本の『不幸』な運命を歩もうというのであろうか。だが、今こそ日本の教師は、自らの『不幸』が、わたしたちの愛するこどもたちの『不幸』であることを知らねばならない。自らの問題をとりあげられない『不幸』なこどもたちがいる。そして、こどもたちのいじらしい問題をとりあげることのゆるされない『不幸』な教師がいる。それは『不幸』な土壌であるというよりほかにはない。」と書く。

 その具体的事実として、「学力調査」や「定時制高校」をとりあげ、教育現場がかかえる問題を「所報」その他に書きつづけると同時にカマラード20号に、「わたしは、書かねばならなかった」として、「カマラードは主張する」のタイトルの文を巻頭にかかげた。それには、「広く志を同じくする人々と共に日本の民主化のために戦わんとするものである」と訴え、具体的に15項目を列記した。
 教育次長が宮崎先生に辞職を迫ったのは、宮崎先生の主張に対して向き合うことなく、教育委員にふれた部分だけをとりあげ「~下部機関の所員が~」と辞職を迫ったのだ(世に言われる「レッドパージ」)。

 これは菅首相が繰り返し言う「~学術会議は国費を10億円使っており、会員は公務員であるのだから~」と酷似しており、戦後何も変わっていないのか、それとも1949年時にもどったのか、いずれにしても国の一大事と思う。
 「カマラード」は20号で休刊になり、宮崎先生は4年後福島に招いてもらい、教職にもどることになる。ーつづくー( 春 )                

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