mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

初心忘るべからず、Y子からの手紙 ~ オレは幸せ者3~

 いま「デモシカ教師」という言葉は聞かれない。もう死語になったのだろう。広辞苑では50年代の3版、90年代の4版、いずれにも見出し語としてはなかった。いつも携行している電子辞書は大辞林だが「でもしか」の見出しで

 「・・・にでもなろうか」「・・・にしかなれない」などの助詞「でも」と「しか」から、職業や身分を表す語について、無気力な、能力の低いなど、やや軽んじていう意を表す。「…教師」

とあった。インターネットには、その時期を「1950年代~1970年代」とあった。

 なぜ今、こんなことをと思われるだろうが、私は教員初年が1958年で、「デモシカ教師」はよく耳にし、そのたびに(オレのことでもあるなあ)と思ったのだった。強固な意志をもって教員になろうとしていたわけではなく、教育学部に所属しながら、教員になることだけでなく、さまざまな仕事場を思い描きながら暮らしていたからだ。
 そんな私が、思いもかけない痛打を浴びるジケンがあった。
 4年の1学期、私は、教育実習で市内のG中学に行き、3年生の国語を担当した。クラスの生徒数は63名。その中には、受験を失敗した「先輩」も入っていた。教室に隙間はなく、初めからなんとなく落ち着きがなかった。自分が「デモシカ」でありながら、いや、「デモシカ」だったからかもしれない。とうとう耐え切れなくなり、1週間目に、授業をせず、1時間、生徒たちを非難しつづけた。しゃべっているうちにしだいにそんな自分が嫌になってきたのだが己にブレーキをかけることができなかった。
 4時間目だったので教生控室にもどり、空エンゼツ後の何とも言いようのない気分で昼食をとっていた。そこに、受け持ちのY子さんが来て、「これを読んでほしい」と言い、ノートの裏表に書いたものを手渡された。それが以下の文である。

 先生、話を聞いてあまりにも驚きました。
 先生のおっしゃることは、わからないわけでもありませんが、しかし、先生も、絶対にそうであってはいけないと思うのです。
 「先生」というものになる以上、感情は絶対無用だと思うのです。
 先生というものに、いちおうの尊敬をいだいていたのですが、今、私は、あいそをつかしてしまいました。
 私達のクラスは、ほんとうに騒がしいクラスであることはたしかです。でも、騒がしいのは不安定だからです。
 学級初めに決められた、クラスたんとうの先生が休み、今だにいらしてくださらず、まだ、ちえ子先生がたんにんの先生であるということもわからない生徒がたくさんいるのです。
 そんな不安定な毎日の生活に、教生の先生がいらして下さると聞いて、一点のあかりをつけたような希望を もったのではなかったでしょうか。そして、みんな待っていたのです。明るいクラスへと導いて下さるのを、みんな待っていたのです。
 しかし、先生は、私達の心の中を見ぬいては下さらなかったんです。ただ表面を見て、あいそをつかされてしまったんですね。
 そして、今日、先生の話を聞いて、私達はどんな気持ちだったでしょうか。
 今から直そうとおっしゃった先生のお言葉に、みんながついていけたら、私はそれで十分だと思います。
 しかし、先生、先生がこれからいらっしゃる道には、こんなことがたくさんあると思うのです。
 そんな時、こん回のようなことをくりかえしていったなら、決して、よい先生にはなれないと思うのです。
 ですから、二度とあのようなことをなさらないで下さい。経験は一度でたくさんだと思うのです。
 どうかよい先生になってくださることをのぞみます。
 しかし、私一人の 考えですから、みんなはどんな気持ちでいるかわかりません。でも、きっと、みんなも私と思わずにはいられません。   Y子

 私は、すぐ担任にクラスのことを聞き、放課後、Y子さんへの弁解に努めたが、実習の最後まで距離はまったく縮まることはなかった。
 間もなく来た長い夏休みも、心の晴れることのない日がつづいた。(教職というものは、こんなにも重い仕事なんだ。オレにどれだけのことができるかわからないがオレの仕事場にしよう。「デモシカ教師」と言われようとも・・・)と思った時には、もう休みは終わりに近かった。

 あとは迷うことはなかった。
 Y子さんから言われたことを一言にすれば「それでも、先生になるんですか」ということであったが、その問いを受けたために、それまでのあいまいさを吹っ切り、出した答えは「教師になります!」だったのだ。

 いろんな将来をいい加減に描いていた時にY子さんに手紙を突き付けられ、教職に就いてからも多くの人に助けてもらいながらだったが、この仕事がオレの唯一の仕事場だったんだと今振り返れるオレは幸せ者だとつくづく思えるのだ。それも、これから社会に踏み出さなければという、大学最後の年に突き付けてもらったのだから。
 しかも、Y子さんには進路を決めさせてもらっただけではない。教職に就いてからもオレは、あの時と同じことを数えきれないほど繰り返したが、そのつど、机の引き出しの中のあの手紙が、退職するまで「先生、またやりましたね」と声をかけてくれ、オレの前に座る子どもたちを考えつづけさせてくれたのだったのだから。( 春 )