mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

いがらしみきおさんの「寄稿文」から、思い巡らす

 しばらく前に、我が家のよっちゃんが「これ読みな」と、新聞記事を持ってきた。それは3月29日の朝日新聞に掲載された、漫画家いがらしみきおさんの「『神様のない宗教』から12年」という「寄稿文」だ。いがらしみきおさんは「ぼのぼの」の作者で、しかも仙台に在住とのこと。「ぼのぼの」は、友人が好きだったので知っているが、近くに住まわれていることは、今回初めて知った。          

  

 そして、これも今回初めて知ったのだが、いがらしさんは、記事によると12年前の震災当時に、一度目の寄稿文を書ている。そこでは、あの甚大な被害にもかかわらず人々が助け合い、人を信じ、水や食べ物やガソリンを求め静かに行列をつくって並ぶ光景に『神様のない宗教』を感じたという。それから12年経って、いがらしさんは「我々はなにかを失いつづけているのではないか」と「漠然とした不安」を表明し、何を失いつづけているのかを問うた。

 結論から言うと、失いつづけているのは「人を信じて生きる」ということなのだろう。人を信じて生きられない社会の出現。しかし、それはもはや「社会」とは言えないのかもしれない。というのも寄稿文の他のところで、いがらしさんは「みんなでいっしょに暮らすには、みんないっしょに見るものが必要なのさ」と言っているのだから。キリスト教社会はキリスト教の神様を、イスラム教社会はイスラム教の神様を、良くも悪くもみんな見ていると・・・。では日本は? 12年前いがらしさんは、日本の被災地に「神様のない宗教」を見た。日本にはみんなが一緒に見る神様はいないけど、人を信じて生きて見るという、一つの姿を見たのではなかったか。そしてそれが12年経つ中で、失われ続けているというのだ。

 その証左としていがらしさんは、ネットに飛び交うデマや中傷、社会の至るところに設置されるカメラ、コロナパンデミックによる恐怖と社会の分断と孤立化、ウクライナ侵攻やトルコ大地震などを挙げている。
 なかでも「最初は交通情報の定点カメラからはじまったが、そこから駅や商店街の防犯カメラ、各家庭のインターホンや玄関の防犯カメラ、そして携帯電話と車載カメラへと続く増殖のスピードは、まるでビックバンのようだ」と語るカメラに対する記述は、さまざまな事象や想いを喚起させる。

 例えば、しばらく前までは家の生け垣や塀は、社会(ご近所さんや地域社会)や社会の視線から家というプライベートな空間を区分し守るためにめぐらされた。ところが今では、塀をめぐらしただけでは十分でないのだろう。家の中に身を潜めてカメラを設置し、社会に始終視線を注ぐようになっている。そのカメラの視線に、外を歩く私たちは始終晒されている。防犯のためだと言われればそうなのだろうが、見方を変えれば、外(社会)を歩く私たちは、さまざまな視線に始終注視され、監視されていることになる。途端に外を歩くのも気が気ではなくなる。

 同じようなことは、戦場についても言えるかもしれない。以前は、命を守るためには相手から身を隠さなければならなかった。丸腰で敵の前に姿なんて見せたら大変だ。ところが今や、安全なところからカメラでとらえた敵をロックオンし、ボタンを押せば攻撃できる。ネットにおける誹謗中傷や罵詈雑言も、自分の身は匿名という安全なところから発せられるという点では同じだ。

 そう言えば、さまざまな場所に設置されたカメラがとらえた映像は、テレビでもたいへん重宝がられている。毎朝、決まった時刻になると視聴者や防犯カメラのとらえた映像がテレビに映し出され、番組の司会やゲストがしかめっ面で一言、二言コメントをする。そのほとんどは軽犯罪や迷惑行為、危険な車の運転行為など。それらは悪いことにはちがいないが、全国に報じなければいけないのだろうか? と思ってしまう。ここでも番組制作者や司会者は、視聴者からのとっておきの映像を待っている。あるいはパソコンでネタになる映像がないかググっているのだろうか。自らは、現場に足は運ばないで。カメラという一つの事象から、いろいろなことが連想ゲームのように頭のなかを駆け巡る。

 いがらしさんは、「人」を信じて生きなくなった「我々はなにを信じて生きてきたのだろう」という。それは「人」ではない何か? それをいがらしさんは何だと思っているのだろう。聞いてみたい気がする。
 聞いてみたいことは他にもある。寄稿文の終わりの方で、被災地に築かれた「巨大な堤防」について触れている。それをいがらしさんは「異様な姿」と表しているから、決して好ましいこととは思っていないようだ。でも「震災を受け入れたように、その堤防をさえも受け入れたのかもしれないが、我々は受け入れる以外に『前を向く』ことは出来ない。なぜなら、受け入れることこそ信じることだからだ」という。
 私は、よくわからない。わからないから、ずっと引っかかっている。はたして、それでいいのだろうかと。少なくとも私にとっての「堤防」は「受け入れる」ではなく「受け止める」なのだ。そう、だからいがらしさんに言わせれば、わたしは「信じていない」のかもしれない。

 いがらしさんは、寄稿文の最後をこう結ぶ。「信じるということは、人生という自分の持つ限られた時間を、信じるものへと差し出す覚悟のことだろう。ワンタッチや、ワンクリックではなく、その信じるもののところまで、歩いて行かなければならない」と。きっと、私はいがらしさんのところまで歩いて行かなければならないのかもしれない。でも、私は慌てて歩いて行こうとは思わない。本当に出会わなくてはならない人は、かならずいつか出会えると「信じている」から。( キヨ )