mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

「冬の学習会」を振り返る ~ 多くの仲間と子どもに支えられて ~

 今年は宮城民教連「冬の学習会」に参加した。学校現場の現状を知らずにものをしゃべったり、批判的に聞いたりする自分を、そのような場に置くことをしぜん避けるようになっている。(どんな時代であろうと、大事なものは大事だ)という思いをもつものゆえ、しぜん足が重くなってきている。

 宮城の「冬の学習会」は、今年が63回だという。よくぞつづいているものと思う。つづけている人たちに感謝だ。
 「冬の学習会」の歩みについてのきちんとした記録は残っていないが、1952年を第1回とする夏の東北民教研集会後に冬は各県でもつようになったものであり、1955年が宮城の第1回「冬の学習会」ということになるのかもしれない。

 話は夏の東北民教研にとぶが、第1回会場は宮城で、連坊小路小学校でもたれた。鈴木道太・佐々木正・大村榮・佐藤九二一・宮崎典男・小泉定光らが呼びかけ人になり新潟を含む東北各県に働きかけ、準備会をもって本集会をもっている。

 宮崎典男の記録によるとその時の集会予算は次のようだった。
 ・収入―5万円(・宮教組からの後援費1万円、・東北5県教組2万円、・会費
         2万円「宮城参加者のみ、1人200円」)
 ・支出―5万円(・講師関係2万5千円、・会場費5千円、・プリント2千円、
         ・接待3千円、・通信宣伝1万円、・準備5千円)
 ・参加者についていうと、「岩手宿泊班は本部のご案内の好意で教養学部(尚心
  寮)へ。1泊50円、食事は米2合持参で1食60円(米なきときは80円)。毛布
  持参。」 と大会ニュースにみられる。

 このこと1つ見ただけでも、参加する方も準備する方もたいへんだったことがわかる。参加者は180人だったそうだ。会場校校長が左遷されたという話まで残るようだ。このような出発をした「東北民教研」であり「冬の学習会」であった。

 この第一回東北集会を書きつづけたら尽きないので、今年の冬の学習会にまたもどる。
 今年私が参加した理由は2つ。1つは、「センターの部屋」の椅子を一つでも埋めること。もう1つは、国語分科会での仕事を言いつかったことだった。
 「センターの部屋」は、3人の報告者の話がよくて、気持ちよい時間を過ごすことができた。

 問題は国語の方。これまで私は人前で話をして1度もうまくいったためしがない。今回受けた時も、そうなることは覚悟の上だったのだが、そのとおりになってしまい、翌日は疲れがドッと出て、1日中、ゴロゴロして過ごすことになってしまった。なぜか。
 力のなさの一言に尽きるが、用意した内容が完全に場にふさわしくないものであったことも大きい。なんと、前に座る人たちにはほとんど不要かもしれない内容を用意したことになってしまったのだ。その心配がなかったわけではなかったが、与えられた任務をまともに考え、柔軟でなかった。考えるために取り上げた素材を、その場で変える勇気も力もなかったと言える。あまりに情けない。

 それでも、こんな時いつも助けてもらうのは、かつての子どもたちが書き残してくれたものだ。かれらの書いたものは私の中ではいつまでも古びない。いつでも使えて考える教師の仕事を考え合うための材料になってくれる。そのたびに、(子どもってすごいなあ)と思いつつ、教員であったことを幸せに思う。

 今年も彼らに感謝しつつ、私の「第63回冬の学習会」は終わった。( 春 )