mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

『傷』とともに生きる私たちに。

 しばらく前に、diaryで「傷」にかかわるものを書きました。それらを書くきっかけは、宮地尚子さんの『傷を愛せるか 増補新版』でしたが、本の内容などはまったく触れてこなかったので、今回紹介しようと思います。

  

 著者の宮地尚子さんは精神科医で、トラウマ研究の第一人者。『傷を愛せるか』執筆の動機を、あとがきで「だれもが言葉にならない痛みを抱えている時代だからこそ、旅での些細な出来事や、映画やアートなどから見えてくるものがあるのではないか。人が傷つけ、傷つけあって生きていくなかではぐくまれる智慧や、傷を抱えるからこそ気付くことがあるのではないか」と述べている。
 そう打ち明けるとおり、日々の暮らしの出来事を見つめる。そして、その出来事が心に映し出す光と影に、宮地さんは出来事の新たな意味と世界を見出していく。

 本書は、「Ⅰ 内なる海、内なる空」「Ⅱ クロスする感性」「Ⅲ 記憶の淵から」「Ⅳ 傷のある風景」の4部構成からなっている。それぞれに数ページから十数ページからなるエッセイが綴られる。

 内容を簡潔に要約すると「Ⅰ内なる海、内なる空」は、この本の書下ろしとして書かれたエッセイが多く、親友に訪れた悲しい別れや旅先での予期せぬ出来事に、また以前に見た映画や漫画の世界にまなざしをむけ、宮地さんの心のうちに生じた想いや気づきが綴られる。「Ⅱ クロスする感性」は、2007年から2008年の米国滞在中に『週刊医学界新聞』に掲載された文章から成っている。「クロスする」というように、ここで書かれたエッセイのタイトルは、例えば「開くこと、閉じること」「動物と人間」「宿命論と因果論」「女らしさと男らしさ」「捨てるものと残すもの」など二つの異なる事項や事象が取り上げられ、それらをめぐって語られる。「Ⅲ 記憶の淵から」は、今回の文庫化にあたって増補したもので、2010年に大月書店から出版された単行本には収められていない。ここでは、すでに亡くなられた父母の記憶や、またわだかまりとして心に残る、やるせない出来事をめぐってなど。

 そして最後の「Ⅳ 傷のある風景」で、まさに本書のタイトルである「傷を愛せるか」がテーマとして語られる。ここで主に取り上げられるのは歴史における傷であり、具体的にはベトナム戦争というアメリカの「傷」をめぐってだ。宮地さんは言う。「米国の博物館は、たいてい自国の歴史を、正義と勝利の輝かしいものとして描いている。ワシントン大統領の時代の先住民の虐殺も、19世紀以降続く他国への介入も、進歩と文明の名の下で正当化されてきたし、いまも『正義の味方』として強いヒーロー的な自画像を自国に与えている」と。そしてそのようなアメリカの歴史の中においてベトナム戦争は、「唯一『負け』に終わった戦争であり、正当化の論理に疑義を呈され続け・・・。米国の歴史の『汚点』『恥』である」と。その「汚点」であり「恥」である歴史の「傷」を象徴し、その建造に当たって多くの論争が巻き起こったのがベトナム戦没者記念碑である。その記念碑の建造における論争を含め、アメリカが自国の「傷」とどう向き合って来たか、来ているかが語られる。それは翻って、日本の近代における戦争と私たちとの向き合い方をも考えさせる。さらにここでは「景観の抹消」として、事件や事故が起きた場所や地域に残る景観・風景としての「傷」を抹消することが、どのような人々の思いや意味合いの中でなされるのかについても触れられており、震災における風景のなかの傷(震災遺構)とどう向き合っていくのかについても考えさせられた。

 最後の「Ⅳ 傷のある風景」は、本書のタイトルに関わることもあり若干内容にも触れて長めに書いたが、どれも読みやすく、どこからでも読める。ぜひ手に取っていただければと思う。(キヨ)