mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

「傷」つくことを許せた大人たち?

 先日、『傷を愛せるか』という本を手にしました。著者の宮地尚子さんは精神科医で、トラウマ研究の第一人者です。タイトルを目にして、《あなたは傷を愛せるか?》と問いかけられている気がしました。それであれこれ傷の記憶を遡ってみると、傷にまつわるいろいろを思い出しました。

 傷をつけたり、傷をつけられたりするのは誰でも嫌でしょう。「傷を愛せるか」って、それはなかなか無理です。そう思う一方で、でもその傷の受け止め方というのは、時代によって違っていたのかも? というのは、子ども時代のことを思い出したからです。

 私は、子ども時代を東京のベットタウンといえる公団の団地で暮らしていました。当時は、まだまだ自家用車は高価で、誰でも買えるという感じではなかったように思います。団地内に用意されている駐車場も少なく、各棟の目の前には駐車場はありませんでした。棟に面した前の道路にあったのは、用のある車が入ってきた時に向きを変えるための広めのスペースのみ。そこはちょうど車2台分のスペースでした。ですから車を持っている住人の多くは、その広めのスペースと、あとは棟の前に路上駐車という車がずいぶんありました。

 そんな状況でしたから棟の前の道路で子どもが自転車で遊べば、ときにハンドルが車にぶつかったり擦れたり、ペダルが当たったりしました。野球やサッカーに興じれば、当然ながらボールが車のボンネットやドアの横っ面に当たることもありました。でも不思議なことに、それで大人に大目玉を食らったという記憶はほとんどないのです。車の持ち主のおっちゃんが、遊んでいる私たちを横目にみながら「ボール当てるなよ」「気をつけろよ」と声をかけることはありましたが、それはガキんちょの私たちに対する注意であると同時に、なかば親しき挨拶のようでもあったように感じました。今の、ほんのちょっと物が当たっただけでも大騒ぎになりかねない世の中とは大違いです。

 どうして当時の大人たちは怒らないでいられたのでしょう、本当に不思議です。はっきり言えるのは、世の中が変わり行くなかで、子どもや車に対する見方も大きく変わって行ったということ。その見方を変えた要因は何なんでしょうね? そんなことを「傷」ということから、ふと思い出しました。

 えっ?『傷を愛せるか』について何もコメントしないのかって。申し訳ありません、それはまた別の機会にということで、お許しください😅。(キヨ)