mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

平和を願う2人の戦国武将(追記あり)

 今日は7月7日、いわゆる「たなばた」の日である。

 現職だった頃、校内でたなばた飾り作りが恒例行事だった。大きな飾りはグループやクラス単位で、そして一人ひとりが短冊に願いごとを書いて飾る。
 短冊には、ほとんどが〇〇になりたい(将来の職業名)」「〇〇の病気がなおりますように(病気の家族や友だちなどへの心配)」「〇〇がほしい(物や金)」などであった。そんな中、前回のこのコーナーでも紹介した湾岸戦争があった年は、「戦争が終わりますように」「早く世界中が平和になりますように」といった、世情を心配する短冊が数多くみられた。
 さて今年は子どもたちはどんな願いごとを短冊に記すのだろう?「コロナがはやく終わるように」そしてウクライナでの戦争についても書く子どもたちがいるのではないだろうか。子どもだけではない。私たちおとなにも短冊に変わるねがいごとを記すチャンスがある。今、最終盤を迎えた参議院選挙がそれだ。投票用紙はまさに短冊そのものだ。平和を願う1票を届けなければと思いを強くする。

 退職後の第2の職場は児童館だったが、私の勤務する児童館は、苦竹駐屯地に勤務する自衛隊員が多く住み、その家の子どもたちが、いわゆる学童保育で児童館の放課後支援に数多く登録していた。そのような中でも、7月や8月には『平和を考えるつどい』を開催し、被団協の宮城県代表などを講師に、戦争と平和を語っていただいた。自衛隊員の保護者からの苦情は1件もなかった。それどころか毎年のように自衛隊員の保護者から、「私たちも戦争に行きたいと思って自衛隊に入ったのではない」「いつ海外派兵に呼び出されるか不安なのです」と送迎の時に話されていくことがあった。      

 前置きが長くなってしまった。今回の本題についてだが、一人目は我が郷土の戦国武将である伊達政宗。7月3日の朝日新聞の記事に、『仙台のシンボル、実は「平和の像」だった 伊達政宗騎馬像の誕生秘話』というタイトルの記事が掲載された。今年4月の地震青葉山の騎馬像が傾き、修理にだされることは知っていた。それを期に書かれた記事だった。

 簡単に紹介すると「制作者が意図したのは、勇ましい武将の姿ではなく、穏やかな平和の像であった」ということだ。もう少し記事の内容を紹介する。
 銅像の建立は正宗没300年祭(1935年)の記念事業で、制作者は柴田町出身の彫刻家・小室達。 しかし戦時中の1944年に金属供出でいったん姿を消した。残された石膏原型を使い1964年に完成したのが、今回修理に出される甲冑に身を包んだ騎馬像。しかし実は別の姿を考えていたことが郷土史家たちの調査でわかった。

 その姿は正宗が居を仙台城に定め、初入城した時のイメージだった。それを助言したのは、旧制二校の校長、阿刀田令造で、彼は「朝鮮征伐の武勲に力点を置きたい人もあるだろうが、もっぱら平和事業に尽くした仙台開府・藩建設の時期でなければならない」と語ったそうだ。郷土史家の小倉博も「正宗候の偉業は、甲冑を脱ぎ捨てて尽くした政治経済産業等の平和事業。平服に近いものにするのが最適当」としたという。
 しかし1930年代という日本が軍国主義へと傾斜していく時代が、その案ではなく、松島の瑞巌寺が所蔵する甲冑を身につけた正宗の木造の姿の方がいいと、平服の案は退けられたというのだった。しかし敗戦後、騎馬像はしばらく復活せず、代わりに平服姿の「伊達政宗平和立像」が一時期立てられていたそうだ。
 いずれにしても、仙台は武力に頼らず、教育や経済によって豊かに成長した。それが地域の知識人たちのプライドだったのだろう。
 甲冑像の修理を機に、平服姿の立像も青葉城の一角に建てられないものだろうかと、密かに願っている。

 さてタイトルは2人の戦国武将だ。そのもう一人は大友宗麟。豊後の国のキリシタン大名。この話を紹介してくれたのは、センターでもお呼びして、さまざまなアドバイスをしていただいた堀尾輝久さんだ。
 どういうことかというと、「ムシカ」というのは「ミュージック」つまり音楽のことで、ムシカという言葉を最初に使ったのが大友宗麟だというのです。大名の宗麟のところへ宣教師のバテレンさんたちが来て楽器を演奏する。その心安まる楽の音を聴いて、通訳を通してこれは何だと問い、ムシカでござるという返事が返ってきた。それに共鳴して大友宗麟はムシカの国、武器を持たない平和な国を作ろうとしたというのです。しかし残念ながら戦国時代だったので、一気に攻め込まれてつぶされたというのです。
 ムシカは当て字で無鹿と書くのですが、今もその地名は豊後の国、現在の大分と宮崎の県境に残っています。ですから無鹿は、日本での非武装都市第1号といっていいでしょう。

追記

誤解のないように以下をつけたす。

正宗、宗鱗のすべてを肯定しているわけではない。二人とも武力でもって国作りをしてきたのも確かだ。

さらに大友宗鱗は、キリスト教に帰依した後は、家臣団の離反を招き、晩年は反乱が多発。そんな中で神社仏閣を徹底的に破壊したのも事実である。

もう一つ、ムシカの国で非武装をとったことで、島津藩に征伐されるのだが、このようなことをもって、今、話題になっている軍備拡張の世相を肯定することは、私の願うところではない。軍備対軍備は負のサイクルをうみだすのは、世界の歴史をみても明かだ。またムジカ(ミュージック)はすべて「平和」につながるかといえば、それも違う。戦争に利用された音楽も数多くあるのも事実である。<仁>