mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

『偶然と想像』と、何度でも

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 『偶然と想像』第3話のタイトルは、「もう一度」。

 夏子(占部房子)は、高校時代の友人に会うことを期待しながら仙台で行われる高校の同窓会に参加する。しかし思いは叶わず、翌日がっかりして帰京へと向かう仙台駅のエスカレーターで、あや(河井青葉)とすれ違い、二人はあわてて駆け寄る。20年ぶりの再会に興奮を隠しきれず話し込む二人だが、やがて想像し得なかった変化が訪れる。

 映画を観て、幼稚園の子どもたちと劇づくりをしていたときのことを思い出していた。子どもたちと取り組んだのは「三年寝太郎」。劇のなかのセリフや動きも子どもたちと一緒に考えつくって楽しんだ。そんなある日の朝、ミツオが村人の昼飯を家でつくってきたと、大きくて立派な握り飯を見せながら劇のなかで使いたいと言う。ミツオの劇づくりへの思い入れの強さに気押されて、あまり深くも考えずに頷いた。しかし、それはすぐ浅はかだったと後悔した。というのも三年寝太郎の住む村は、日照りで米がとれず困っているのだ。その村人が立派な握り飯を食べるというのはどうみてもおかしい。どうしようかとも思ったが、子どもたちが喜んで使っている姿を見て結局なにも言わず、そのまま使うことにした。職場の同僚や劇の会(劇づくりの最後に保護者にも見てもらう会)を見に来た保護者に気づく人があるかもしれない。でも、それはそれでいいと半ば開き直った。

 それからしばらくしてのことだった。朝、教室で一日の活動の準備をしているとミサとノゾミが絵本をもってやってきた。二人は絵本を見せながら《村人は、おにぎりを食べてない。お芋を食べている》と言うのだ。彼女たちは、村人が立派な握り飯を食べるのがおかしいことに気づいたのだ。握り飯の矛盾をはっきり言語化したわけではないが、子どもはすごい!と感心した。問題は、二人の思いを受け止めつつどうするか? 一番はミツオの気持ちだと思った。ミツオは自分が作ってきた握り飯をクラスのみんなが喜んで使ってくれていることを誇らしく思っている。さらにミツオは、人一倍こだわりが強い。握り飯を使うのをやめることになったら、それを受け入れられるだろうか。そんなことを思いながらも、やっぱり子どもたちに聞くのが一番と、思い切って朝の集まりで話をすることにした。私の心配は杞憂に終わった。まったく問題なかった。ミツオはお芋でいいと、ごねることもなくすんなり受け入れた。それどころか、クラスのみんなで(小道具の)お芋をつくろうと張り切った。張り切りすぎて、今度はどれだけ腹いっぱい食べても大丈夫なぐらいの芋ができあがった。

 なんでこんなことを思い出し、そして書いたのか。それは、演じることで見えてくることがあると感じたから。子どもたちは、何度も何度も三年寝太郎ごっこを楽しんだ。寝太郎になったり村人になったり、寝太郎をからかう子どもになったりしながら楽しんだ。その中で、子どもたちは先の話に引きつけて言うなら、自分たちの演じている村人が、大きくて立派な白いまんまの握り飯を食べることのおかしさに気づいたのではないか。そう思ったからだ。演じることで見えてくるもの、わかってくることがある、そう感じたのだ。そして映画は、そんなことを私に思い出させてくれた。(キヨ)