mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

少年の日のこと3

  プロ野球観戦

 父は、私が6年生の時にやっと復職できた。病が完治してのことではなかったので、初めから相当無理があったと思う。私の中学1年の後半に、大学病院に再入院ということになった。近隣の病院では手に負えるものではなかったのだ。
 私はといえば、まぎれもなく「6・3制 野球ばかりがうまくなり」のひとりになり、野球バカの毎日をおくるようになっていた。
 グローブなどあるはずはなく、厚手の布を探し、グローブ型に切り取り、手縫いをし、それに綿を入れ、まさに手製のグローブを持って、友人たちと道路や空き畑で野球のマネごとの毎日。ある時は、川向かいのケンカ仲間たちのところに舟で押しかけ、堤防沿いの広場で試合をして帰ってくることもあった。もちろん、このようなときは、ケンカは一時休戦となるわけだ。

 中学2年になってから間もなくと記憶するが、新聞に、評定河原球場でプロ野球の試合があることの予告が載った。この時のプロ野球はまだ1リーグ制であり、この予告での試合は阪神大映戦。これを知った日から私は落ち着かなくなった。何としてもプロ野球の試合を見てみたいという思いが日ごとに膨らんでいったのだ。仙台はまだ一度も行ったことがない。しかも試合は平日の昼・・・しかし一度観てみたい!
 我慢しきれなくなった私は、入院中の父のもとに米や野菜などを持っていき、その足で野球を観ることを思いついた。当時は入院していても、それぞれの付き添い者による自炊だったので、家を空けることのできない母に代わって、岩手の叔母が付き添っていてくれていた。

 食糧を持っていくという申し出に母は大いに喜んだ。なにしろ長期間、叔母に迷惑をかけているからだ。行ける日を提案すると、母は疑うことなく、石灰工場を経営する知人に頼み、毎日仙台方面に往復しているトラックに乗せてもらえることになった。
 仙台行きはトントンとはこんだ。
 担任には前日、父の病院に行ってくることを話し、当日朝早く川向の工場に行きトラックに乗せてもらった。病院への荷の重さなどはまったく気にならなかった。頭の中はこれから観ることになる野球のことだけ。

 トラックは木炭車。初めて乗る車。速さも特別気にしなかったが、仙台に行くまで何度か止まり、炭を補給し熱をあげなければならない。しだいに私は焦ってきたが、どうにもならない。病院に着いた時には、試合開始時間になっていた。
 焦った私は、叔母にすぐわけを話し、評定河原への案内を頼んだ。市電の愛宕橋停留所で下車すると、そこまで歓声が聞こえる。試合は始まっていたのだ。走っていくと、なんと入場口はもう閉鎖されていた。ワーワーという声だけが私を直射するかのよう。頭はモウモウとしてきた。見回すと、長町行の道路わきの球場を遠く見下ろせる斜面まで人で埋まっている。しかし、このまま帰るわけにはいかない。
 そこで、叔母に「一人で病院にもどれるから」と帰ってもらい、もぐれる箇所を探して、球場の周りを走るがどこにもない。歓声だけがますます体に突き刺さる。

 走り回っているうちに、入場口と1塁側の間の塀沿いに電柱が1本立ち、それを太い針金が支えているのが目に入った。ここを上って潜るよりほかないと思った私は何もかも忘れてそこをよじ登った。私は決して器用ではない。ただ夢中だった。上りきると塀の上にはバラ線が2本張ってあったがそこも無事乗り越えることができ、球場内に落ちることができた。知らない所とは言え、自分が自分でないみたいだった。夢中で1塁側スタンドに走った。

 当時は阪神の黄金時代。藤村・別当・土井垣・吉田などがいた時だ。大映は飯島しか記憶にない。初めてのプロ野球は、内野フライでもカーンと上がると、(ホームランだ!)とすぐ思った。1球1打にドキドキしっぱなしだった。その時はもぐりこんだ罪悪感はまったくなく、球場内の観客の一人としてワーワーと終わるまで騒ぎ続けた。
 試合が終わり病院に帰っても、叔母にも父にも詳しい話はせず、またトラックに乗って帰った。頭は球場の様子のままなので、トラックが何度止まろうと帰りはまったく気にならず、夜、家に無事帰ることができた。

 その後仙台で暮らすようになり遠くからは何度も目にしていたのだが、退職直後に、私の“古戦場”(?)評定河原球場に行ってみたことがある。あれから間もなく宮城野原球場ができたこともあり、その日評定河原球場には人っ子一人いなかった。「あの日」から50年近くになる。
 球場は何も変わっていなかった。ゆっくりと球場を回って歩いた。あの電柱もそのまま立っていた。支える針金も・・。見上げると、塀の上を這うバラ線もあの日のままだった。もちろん物音ひとつ聞こえない。ただ、私の頭の隅には、まだあの日の歓声が時を超えて微かに残っていた。( 春 )