mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

少年の日のこと 2

  父との思い出

 小学校時代の父とのはっきり残っている思い出は、3つしかない。
 その3つの年月などをうらづける資料は、母の死後、家の片づけをしている時見つけた父の「軍役履歴表」だけ。
 それで、まず、その「履歴表」についてふれる。
 「本表ハ帰休ヲ命セラレ若ハ現役ヲ離レルトキハ之ヲ本人ニ附與シ服役中保持セシムルモノトス」
 「本表ハ召集及簡閲点呼ノ時ハ持参スルモノトス」
などの「注意書き」が5項目印刷してあることから、帰還した父が携行していて持ち帰ったものとわかる。

 父の兵役は2度ある。
 最初は、大正14年12月召集され昭和3年12月まで。
 2度目は、「充員召集ヲ令セラレ応召」ということで「昭和18年4月28日、場所は横須賀第一海兵団に入隊し、7月11日、トラック島に到着」とある。
 その後、「18年11月1日、兵役法改正ニ依リ服役満期ノ年齢45年ニ満ツル年ノ3月21日トナル(昭和18年法律第110號)」との記載がある。つまり、兵役解除年齢に達しても兵役続行ということで、そのままトラック島で終戦を迎えることになったのだ。
 辞令官庁名での履歴表記載の最後は、10月27日、「第1種症戦病(アメバー性赤痢)ニ依リ第4海軍病院ニ入院」になっている。
 その後に、公印がなく、鉛筆書きで次のように記されているので、父本人が書いたものと思われる。
 「21年2月20日、トラック発(16号輸送艦便乗)」
 「2月27日、浦賀着、国立久里浜病院入院」
 「3月13日、国立霞ケ浦病院転院」「4月5日、入院中ノ処軽快退院」

 父の戦地の履歴説明が長くなったが、私に残る父との思い出の1つは、「充員召集」という名での2度目の出兵の日のことである。
 戦時中を描く映画・テレビでは、出征者を近所の人々が見送る場面がよくあるが、私の部落でのその記憶はまったくない。父の場合も同様で、見送りは家族のみ。その時私は2年生。母は2歳の弟を背に、家族だけで、歩いて2時間近くはあっただろう軽便鉄道の駅で父を見送ったことである。
 その駅には、教科書に出ている物語「一つの花」のようにコスモスの花は咲いておらず、ホームでの別の出征者の見送りもなかったのだが、教職について、授業で「一つの花」を読むたび、必ずこの日の小さい駅が浮かんでくるのだった。見送り後、また歩いて帰ったはずだが、それはまったく記憶にはない。

 思い出の2つめは、それから、あまり日が経っていなかったように記憶するが、横須賀の父から、「面会日が決まったので、〇〇日に横須賀に来るように」という連絡があり、家族3人でその指定日に横須賀に行ったときのことになる。
 父は待っていた。構内には、真っ白い服装の兵隊たちが大勢行き来をしていることに驚いていると、父は、岸壁に展示(?)されている、日露戦争時の旗艦「三笠」に案内してくれた。口数の少ない父は船内を歩きながら、珍しくしゃべりつづけた。戦艦に入るなどもちろん初めての私は興奮しながら艦内を歩いた。
 その後は、父の「知り合いの家」に案内してもらい、1泊して帰ったのだった。

 後になって、いろいろな本を読むことなどで推測できたことは、指定面会日は外地に行く直前の日が決まったことによること、父の言った「知り合いの家」は、戦地に行く兵士を世話しているお宅で、そこに宿泊させてもらったことなどがわかり、面会日はいつであったかの記憶はなかったが、履歴表に合わせると、トラック入隊が7月6日になっていることから推すと、5月末だったということになりそうだ。父の饒舌もそれと無縁ではなかったように思う。

 終戦になっても父からはなんの音沙汰もなかったが、翌年になって、「霞ケ浦病院にいるので連れに来るように」という連絡が突然病院からあり、すぐ母が出かけた。履歴表には「軽快退院」と書いてあったが、よくなったのではなく、家には帰ることなく、そのまま仙台の大学病院への転院治療となった。長期間入院後、私には想像もできない「人工肛門」という体で帰宅してきた。その入院中のほとんどは母が付き添い、私たち兄弟は叔母の世話になった。その後、父の復職はしばらくならず、在宅で過ごすことになる。

 3つめの思い出は、ジッと座り込んで過ごす父が、あるときから、ヤミの「紙巻たばこ」つくりを始め、5年生の私も、傍でそれを手伝ったことになる。
 父がどんなルートで、簡易な紙巻機(?)・それ用の用紙・刻んだ葉タバコ等を用意したかはまったくわからない。出来上がったタバコは、書棚の本のケースに入れて仙台の叔父のところに届けつづけていたようだが。この時が、私が父と一緒にいることができたもっとも長い時間になったのだった。この一緒の時間にも、父は戦地のことはいっさいしゃべらなかった。
 後日、戦時中の南洋諸島に関する本を読むことで、死者の多くは餓死者だったことを知り、父がいわゆる戦死者にならず、とにもかくにも帰還できたのはアメーバー赤痢になったからではなかったかと思うようになった。それも、履歴表では、終戦後の「10月27日に現地で入院」とあるが、罹病は、もっともっと早かったのだろうと思うようになった。早くなければ現地で餓死者のひとりになっていたはずだと思うので・・・。( 春 )