mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

二つの命愛しみつつ、悲しみ胸に想い継ぐ ~ 金子兜太さんを偲んで ~ 

 20日、金子兜太さんが亡くなった。98歳とのことだが、まだまだ生きていてほしかった。残念でならない。
 「天声人語」も「河北春秋」もそろって「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」の句を取り上げている。
 この句について金子さんは、「これは太平洋戦争に従軍し、日本への最後の引き揚げ船となった駆逐艦の甲板上で詠んだ句です。敗戦を迎えた旧南洋諸島のトラック島で1年3か月の捕虜生活を終え、最後の引き揚げ者とともに島を後にした。トラック島ではゆうに8000人を超える戦死者が出、彼らのために墓碑銘を建てました。駆逐艦の航跡が白い糸のように水脈を曳いていく。駆逐艦の最後尾で水脈と墓碑銘を交互に眺めていると“非業の死者”に見送られるように感じたのです。」と、著書『あの夏、兵士だった私』に書いている。
 私の父もトラック島だった。金子さんより少し早く帰国したが、土浦の病院からの連絡で母が迎えに行ったが、家には戻れず、そのまま仙台の大学病院に転院。病名はアメーバ赤痢。手術して人工肛門の生活に入った。短期間復職したが再発、父からはトラックのことは何一つ聞くことなく別れたが、その後本を読み漁るうちに、圧倒的に餓死者が多いなかで父が生きて帰れたのは(病気になったからだったのだ)と思うようになった。金子さんも、「サイパン陥落後は、餓死が日常当たり前の光景になっていった」「飢餓の状況に直面すると、『悲惨』などという言葉さえ空虚に感じる」と言っている。
 金子さんの話を読むことも聴くことももうできなくなった。
 いろんな集会で、何度か、金子さんの手になる「アベ政治を許さない」を掲げ持った。体に力が湧いてくる筆字だ。この書について金子さんは、「澤地さんから話があった。・・・『こっちからお願いしてもやらなくちゃ』と、一生懸命書いた。また、この日本を戦争のできる国にしようとしている。危険な道に引きずり出そうとしている。・・・『安倍』の文字はカタカナにした。『安寧』が『倍』になるなんてとんでもない。『許さない』の文字を大きくしたのも『こりゃあ危ない』と強く感じたから。・・・」と書いている。
 あの9文字に、金子さんのこんな想いが込められているとは考えなかった。
 「河北春秋」は、<津波のあとに老女生きてあり死なぬ>  の句で締めくくっていた。
 たいへん大事な方が私たちの列から姿を消した。
 私たちの知恵と力がますます問われる。
                               ( 春 )