13日の夜、福島原発事故の88時間のテレビを見た。もちろん、5年後の今も何もみえていない事故の初めの3日間のことになる。所内のすべての人は死との闘いであることを意識しながらの行動であったろうことは、観ている者にびんびんと伝わってきた。
これほどの事故を起こしておきながら、なお再稼働を急いでいるという電力会社、そして、原発に頼ることを公言してはばからない国(政府)は私たちにとって何者になるのかわからなくなってしまう。
福島の子どもたちはばらばらにされて生きている。危険区域解除が広げられても、それだけですぐ帰宅し、元の生活が戻るなんて甘いものでないことは誰でもわかる。
先日、他地区に転校して小学校を卒業するA子さんが、中学校を地元にするかどうかで悩んでいる姿をテレビが報じていた。時間がかかっても、今住んでいる家から解除になった中学に通いたいが電車の時間が合わないのだと言っていた。観ていて、通学電車を走らせてあげられないものかと思った。その後、どうなったろう・・・。
福島のことを見聞きするたびに思うのは、以前にも紹介した「歌集 青白き光」(佐藤祐禎)だ。
しつこくも、また紹介する。歌集の表紙見返しにならぶ5首。
いつ爆ぜむ青白き光を深く秘め原子炉六基の白亜列なる
小火災など告げられず原発の事故にも怠惰になりゆく町か
原発が来たりて富めるわが町に心貧しくなりたる多し
原発に勤むる一人また逝きぬ病名今度も不明なるまま
原発に怒りを持たぬ町に住む主張さへなき若者見つつ
1首めの「いつ爆ぜむ」は平成14年作。歌集最後の短歌で、15首並び、「東電の組織的隠蔽」との見出しがついている。
佐藤さんが周囲のどのような目のなかでつくりつづけたか勝手に想像するのだが、それでも言い続け、歌い続けなければならないものがある。( 春 )