mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

「あと30センチ」の豊かさ ~『ぐんまの教育』80号から ~

 

   あと30センチ

  教室で帽子をかぶったままの子どもがいれば、マナーがなっていないと見える。「部屋では帽子をとろうね」とやさしく指導したりする。しかしあと30センチ近づいていたら、帽子の下のその子のこわばった表情が見えたかもしれない。ああこんなに怯えていたのか。そう感じられたならその子が安心できる教室をどうにかしてつくってゆきたくなる。

 教室で唸り声を上げている子どもがいれば「障害」があると見える。ほかの子どもから離して職員室で自習させたりする。しかしあと30センチ近づいていたら、脇をぎゅっと固めて暴発を必死にとどめようとするその子はこんなにこらえていたのか。そう感じられたなら、「よく我慢したね」とみんなの前でその子を承認したくなる。
 教室で規律を守り、勉強もできる子どもがいれば、なんの「問題」もないと見える。「ほんとうに手のかからないお子さんで」とほめそやしたりする。しかし、あと30センチ近づいていたら、いつでもどこでも同じ笑顔の仮面の向こうから、その子の叫びが聞こえたかもしれない。ああこの子はこんなに感情を押し殺しつづけていたのか。そう感じたなら、その子がやさぐれた気持ちをぶちまけられる音読の授業をやってみたくなる。
 あと30センチ。しかし、それがやけに遠いのだ。他者を操作し自己を防衛する技術の鎧を身にまとうことが「有能」とみなされるこの時代、私たちはその鎧を脱いで肌をさらそうとしない限り、ふれることもふれられることもできない。たとえ「未熟」でも、相手にふれ、ふれられる肌の感触のほうから、その子どもの葛藤や格闘に応える学びを共に探り合っていくこと。あと30センチで生まれるコンタクト。学校は、そこを起点にしてあらゆることを問い返す、探究のるつぼであっていい。

 先月末の事務局会で、千葉さんから「これ、読んでみて」と1冊の本を渡された。調子よく「わかりました」と受け取ったものの、しばらくリュックの中に入れ忘れていた。先日リュックの中身を整理したら出てきたので慌てて読み始めた(千葉さん、ごめんなさい)。
 手渡された本は、群馬民間教育研究団体連絡協議会が発行している『ぐんまの教育』80号。「夏の集会」の講演記録として、岩川直樹さん(埼玉大学)の「子どもに応える教育」が掲載されている。引用した「あと30センチ」は、その講演記録の冒頭に出てくる。
 「あと30センチ」を、《そうなんだよなあ、その30センチが遠いんだよなあ》と思いながら読んだ。描かれているのは、教師と子どもとの関係の豊かさ。表題に即して言うなら、30センチの差が生み出す豊かさと言えるだろうか。
 「豊かさ」という言葉は、語源的には「ゆた」から来ているのだと、なにかの本で読んだことがある。つまり、ゆとりだ。豊かさはゆとりの中にある、あるいはゆとりから生まれる。そういうゆとりが、学校にも教師と子どもたちの関係にも必要なのではないだろうか。講演記録の中で岩川さんは、その30センチの生み出す教育の豊かさをやさしく、しなやかなまなざしで語っている。講演記録を読んで、とても豊かな気持ちになった。( キヨ )

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