mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

『diary』で広がる人との出会い、世界との出合い

 私たちの『diary』やホームページを通じて人と人の出会いが広がっていくのは、とてもうれしいことです。最近も、次のような出会いがありました。素敵だなあと感じたので紹介します。

 一つは、千さんこと千葉さんの『季節のたより』を通じての出会いです。「ヘラオオバコ」の記事を書くなかで、日本では要注意外来生物として扱われるヘラオオバコが、西洋では古くから薬草として使われていることを知った千葉さん。さっそく参考にした『ハンガリー暮らしの健康手帖』の記事の紹介と、写真の使用についてホームページ管理者の方に問い合わせをしました。
 すると共同管理者の鷲尾亜子さんからは快諾とともに、少し前にハンガリーのニュースで、 《 ” japánkeserűfű ” (直訳すると「日本の苦い草」)という植物が、侵略的外来種として猛烈な勢いで拡大している》と報じていたので調べると、それは「イタドリ」であること。また食べることもでき薬草でもあることを知って、まるで「ヘラオオバコ」の話とは、逆バージョンのようだ、と記されたお返事をいただいたとのこと。

 さらにdiaryに「ヘラオオバコ」の記事を正式にアップした後には、丁寧にツイッターで次のような紹介もしてくれました。

         

 一方、千葉さんは『ハンガリー暮らしの健康手帖』のなかに、ロシアのウクライナ侵攻に対するハンガリー政府の基本姿勢について触れた記事を見つけたそうです。それを読んで、ウクライナの隣国であるハンガリー政府の主権国家としての姿勢に驚いたとのことでした。

 出会いの中でそれぞれにそれぞれの発見があり、そのことを通して私たちの世界を見つめ豊かさを育んでいく。小さな出会いですが、とても素敵です。

 もう一つの出会いは、今はなき現代美術社の教科書と、その社長をされていた故・太田弘さんに魅せられ、個人的に調べているという近島哲男さんです。
 近島さんは、長いこと印刷の仕事にたずさわられてきた方です。そんな近島さんが、調べていくなかで、私たちが発行する『センターつうしん別冊16号 子ども 教育 文化』の「宮城の教育遺産16 短命だった教科書づくりの記」に辿り着きました。
 「教科書づくりの記」は、美術の教科書づくりではなく、小学校生活科(1、2年生)の教科書づくりについて記したもので、その教科書づくりに関わった宮城のメンバーによる話し合いをもとに、当時所長だった春日が編集まとめたものでした。
 現代美術社が、なぜまた小学校の生活科の教科書づくりを? と思われるかもしれませんが、そこに太田弘さんが教科書を通じて何を若者たち、子どもたちに手渡したかったのかという深い思いを汲みとることができるように思います。
 近島さんは、早速ご自身のホームページで、「教科書づくりの記」について触れた文章を「未来へのバトン」の(追記)として書いて下さっています。ぜひお読みください。

 「未来へのバトン」というタイトル、まさにそうだなあと思いました。

 明日は、参議院選の投票日。どんな未来へのバトンを子どもたちに渡すのか、一人のおとなとしての責任を感じます。私は、亡き父母が私に手渡してくれた「平和へのバトン」を未来に渡したい、託したいと思っています。(キヨ)

平和を願う2人の戦国武将(追記あり)

 今日は7月7日、いわゆる「たなばた」の日である。

 現職だった頃、校内でたなばた飾り作りが恒例行事だった。大きな飾りはグループやクラス単位で、そして一人ひとりが短冊に願いごとを書いて飾る。
 短冊には、ほとんどが〇〇になりたい(将来の職業名)」「〇〇の病気がなおりますように(病気の家族や友だちなどへの心配)」「〇〇がほしい(物や金)」などであった。そんな中、前回のこのコーナーでも紹介した湾岸戦争があった年は、「戦争が終わりますように」「早く世界中が平和になりますように」といった、世情を心配する短冊が数多くみられた。
 さて今年は子どもたちはどんな願いごとを短冊に記すのだろう?「コロナがはやく終わるように」そしてウクライナでの戦争についても書く子どもたちがいるのではないだろうか。子どもだけではない。私たちおとなにも短冊に変わるねがいごとを記すチャンスがある。今、最終盤を迎えた参議院選挙がそれだ。投票用紙はまさに短冊そのものだ。平和を願う1票を届けなければと思いを強くする。

 退職後の第2の職場は児童館だったが、私の勤務する児童館は、苦竹駐屯地に勤務する自衛隊員が多く住み、その家の子どもたちが、いわゆる学童保育で児童館の放課後支援に数多く登録していた。そのような中でも、7月や8月には『平和を考えるつどい』を開催し、被団協の宮城県代表などを講師に、戦争と平和を語っていただいた。自衛隊員の保護者からの苦情は1件もなかった。それどころか毎年のように自衛隊員の保護者から、「私たちも戦争に行きたいと思って自衛隊に入ったのではない」「いつ海外派兵に呼び出されるか不安なのです」と送迎の時に話されていくことがあった。      

 前置きが長くなってしまった。今回の本題についてだが、一人目は我が郷土の戦国武将である伊達政宗。7月3日の朝日新聞の記事に、『仙台のシンボル、実は「平和の像」だった 伊達政宗騎馬像の誕生秘話』というタイトルの記事が掲載された。今年4月の地震青葉山の騎馬像が傾き、修理にだされることは知っていた。それを期に書かれた記事だった。

 簡単に紹介すると「制作者が意図したのは、勇ましい武将の姿ではなく、穏やかな平和の像であった」ということだ。もう少し記事の内容を紹介する。
 銅像の建立は正宗没300年祭(1935年)の記念事業で、制作者は柴田町出身の彫刻家・小室達。 しかし戦時中の1944年に金属供出でいったん姿を消した。残された石膏原型を使い1964年に完成したのが、今回修理に出される甲冑に身を包んだ騎馬像。しかし実は別の姿を考えていたことが郷土史家たちの調査でわかった。

 その姿は正宗が居を仙台城に定め、初入城した時のイメージだった。それを助言したのは、旧制二校の校長、阿刀田令造で、彼は「朝鮮征伐の武勲に力点を置きたい人もあるだろうが、もっぱら平和事業に尽くした仙台開府・藩建設の時期でなければならない」と語ったそうだ。郷土史家の小倉博も「正宗候の偉業は、甲冑を脱ぎ捨てて尽くした政治経済産業等の平和事業。平服に近いものにするのが最適当」としたという。
 しかし1930年代という日本が軍国主義へと傾斜していく時代が、その案ではなく、松島の瑞巌寺が所蔵する甲冑を身につけた正宗の木造の姿の方がいいと、平服の案は退けられたというのだった。しかし敗戦後、騎馬像はしばらく復活せず、代わりに平服姿の「伊達政宗平和立像」が一時期立てられていたそうだ。
 いずれにしても、仙台は武力に頼らず、教育や経済によって豊かに成長した。それが地域の知識人たちのプライドだったのだろう。
 甲冑像の修理を機に、平服姿の立像も青葉城の一角に建てられないものだろうかと、密かに願っている。

 さてタイトルは2人の戦国武将だ。そのもう一人は大友宗麟。豊後の国のキリシタン大名。この話を紹介してくれたのは、センターでもお呼びして、さまざまなアドバイスをしていただいた堀尾輝久さんだ。
 どういうことかというと、「ムシカ」というのは「ミュージック」つまり音楽のことで、ムシカという言葉を最初に使ったのが大友宗麟だというのです。大名の宗麟のところへ宣教師のバテレンさんたちが来て楽器を演奏する。その心安まる楽の音を聴いて、通訳を通してこれは何だと問い、ムシカでござるという返事が返ってきた。それに共鳴して大友宗麟はムシカの国、武器を持たない平和な国を作ろうとしたというのです。しかし残念ながら戦国時代だったので、一気に攻め込まれてつぶされたというのです。
 ムシカは当て字で無鹿と書くのですが、今もその地名は豊後の国、現在の大分と宮崎の県境に残っています。ですから無鹿は、日本での非武装都市第1号といっていいでしょう。

追記

誤解のないように以下をつけたす。

正宗、宗鱗のすべてを肯定しているわけではない。二人とも武力でもって国作りをしてきたのも確かだ。

さらに大友宗鱗は、キリスト教に帰依した後は、家臣団の離反を招き、晩年は反乱が多発。そんな中で神社仏閣を徹底的に破壊したのも事実である。

もう一つ、ムシカの国で非武装をとったことで、島津藩に征伐されるのだが、このようなことをもって、今、話題になっている軍備拡張の世相を肯定することは、私の願うところではない。軍備対軍備は負のサイクルをうみだすのは、世界の歴史をみても明かだ。またムジカ(ミュージック)はすべて「平和」につながるかといえば、それも違う。戦争に利用された音楽も数多くあるのも事実である。<仁>

 

 

『夏休みこくご講座』に、ぜひご参加ください。

   ~今年の夏は、汗をかきかき学習のとき ⁉ ~

 夏休み こくご講座 2022

 日 時:7月30日(土)13:30~16:00
 ところ:フォレスト仙台2F  第7会議室
                  (参加費は、無料)

※ 新型コロナウイルスの感染防止のため、健康不良の方は参加をお控えくだ
 さい。また参加の際は、手洗いマスク着用など感染防止にご協力ください。

  コロナの感染拡大などで中止等変更の場合は、Diary や ホームページでお
 知らせいたします。よろしくお願いいたします。

  ◇第1部 (13:30~15:00)
 
文法から広がる読みの世界! 

    講 師    齋藤章夫さん(元 小学校教師)

  ◇第2部(15:00~16:00)
  こくご授業のなやみQ&A 
  ※ 参加者からの質問・疑問、日ごろの悩みを出し合い、考え合います。

 今年2月に行う予定だった『こくご講座』は、コロナの感染でやむなく延期。年度が替わって『夏休み こくご講座』としてパワーアップしてのリベンジです! 講師の齋藤さんも、2月のとき以上に準備に力が入っています。

 多くの人が「文法は、よくわからないし苦手」「無味乾燥で、おもしろくない」「わからなくたって大丈夫」なんて思っていませんか。でも、その文法がわかってくると、物語の世界がぐーんと広がって、新たな作品世界がみえてくるし、読むことがこれまでよりももっと楽しくなってきます。

 例えば、小説家の平野啓一郎さんは、助詞に気をつけて読むことで見えてくる世界があることを、著書『本の読み方』のなかで、次のように述べています。

「私はリンゴが好きである」という文章と、「私はリンゴが好きではある」という文章とでは、ニュアンスに差がある。前文ははっきりとした断定であり、後者はそれよりも、若干の留保が感じられる言い回しだ。たとえ、明示されていなくても、「好きではある。(が、・・・・・)」と、それに続く何かがほのめかされている。この見落としは小さくない。前者には、リンゴを贈って素直に感謝されるだろうが、後者には、恐らく別のもののほうが喜ばれるだろう。

 当日は、『一つの花』を中心にしながら物語教材を取り上げ、文法を学ぶことの大切さや、文法に着目することで読みがどのように深まるか、みんなで学び合いたいと思います。

    

保護者から贈られた『3冊のノート』 ~ オレは幸せ者8 ~

 オレには、前述したYさんからの手紙など、今も大事にしているいくつものタカラモノの中に「3冊のノート」がある。Sさんからいただいたものだ。
 ある日の放課後、会議が終わって教室に行くと、私の机の上に1冊のノートが置いてあり、小さく、「春日先生 匿名厳守」と書いてある。表紙を開くと、

 昔、学生の頃、「お世話になった方からのお手紙に返事を書かないのは、借金をしているのと同じ」と教えられました。
 「じしばり」を通して、先生から、たびたびお便りをいただきながら、いつも一方通行だけです。
 先生からの熱意が伝わってくる度に、それを受けとめ味わっている様子も伝えたいと思うようになったのが、このノートを書くきっかけです。
 一父兄の「じしばり」返信としてお読みください。

と書いてあり、そのB5版のノートは、学級だより第1号4月8日号に始まり、最終ページ(106号)まで、毎号の便りについてのていねいな感想で埋まり3冊になった(*「じしばり」とは、この時の便りの名で、クラスは持ち上がりの6年生)。

 オレは、ある時から、力不足のオレの仕事の助けに少しでもなることを願って「学級便り」を発行することにした。便りは、その多くは子どもの文を使いながら、子どもの家の方たち宛てにつくることに。最初に手にするのは子どもたちなので、子どもたちと一緒に読んで、短時間オレがしゃべり、子どもたちと話し合う。その後、親たちには、他の子どもたちを知ってもらうことと、私がその時々大事にしていることを述べることにした。
 そのために、子どもたちには、「グループごとのノートに、毎日交代で書くこと。書く内容はなんでもよい。その日のことでなくて構わない。それとは別に自分の日記を毎日書くという人は、それもぜひ読ませてほしい。また、毎日ではなくとも、時々でも書きたいことを書いたときは、それもオレの机に置いてもらえば読ませてもらいたい。グループ日記同様、感想を書く。」ということで退職するまで20年近くつづけた。便りには、そのノート類の他に、授業や行事等について一斉に書いたものも使ったし、授業の生の記録も使った。
 グループ日記を回すようにしたのには、書くことが苦手な子にとっては、仲間の文を見、オレのコメントを見ることになるだろうし、それらが自分の書く上でのヒントになり、書こうという気持ちを互いにふくらませてくれることを願った。そのような願い・目的をもった便りなので、発行を不定期にはできず、毎年、だいたい2日に1回ぐらい出しつづけた。

 Sさんは、子どもの文、それに付した私の文、また、それらとは別に教室や子どもの様子について書いた文までていねいに読み、私の感想や考えに異見がある時は、それもはっきりと書いてくださった。2・3冊目のノートは、卒業式の日にいただいたので、卒業後読ませていただいた。この「3冊のノート」は、その後の子どもたちと向き合う私の仕事への大きな指針になった。
 その一例を紹介する。48号の終わりに私の書いた以下の文と、それについていただいたSさんの文である。

「じしばり 子どもの文を載せることについての私の考え」
 「じしばり」に、「何人かの子どもの作文ばかりが載り、さっぱり載らない子がいる」ということが話題になったということを耳にしました。私は、毎年、そう思われることを覚悟で便りを発行しています。そのように思われているとも思っています。このことについて私の考えを少し述べておきます。
 私は、単に「いい作文(?)の紹介」などということを問題にしていません。子どもたちの考え方、感じ方、ものの見方、そして、力を入れて取り組む力をつけたいと願います。これらは子どもたちの中にあり、「それはこのことだ」というのを子どもの文を使って言いつづけているつもりです。 
 だから、文としては上手でなくても、「この感じ方はいい、おもしろい」「この考え方のはいいなあ、おもしろいなあ」「この見方はいい、おもしろい」「よくがんばった」などというものをみんなで考え合うことを狙って載せています。もちろん、子どもの子どもらしい姿も知らせたいと願っています。だから、単に、「誰の何が載っている」だけで終わらず、家庭で子どもとの語り合う素材にしていただけるとありがたいです。
 そして、「いいものを作るには、いいものを見なければならない、ふれなければならない」と考えます。いいものには、子の前で「いいねえ」と言ってほしいです。子どもに妥協して、そこをいいかげんにすれば、育つものも育たないと思い、心を鬼にして、順番に載せることをしません。番が来ればどんなものでも載るなんて思わせるんだったら、便りは発行しないほうがむしろ子どものためになります。子どものためにならないのも担任の責任と思っていますから、便りを発行する限り、批判を覚悟でやっているわけです。
 でも、すべての子を同じように扱いたいとも思っているんですよ。名簿に、載せた子の印をつけています。使いたいと思っても、その子が多くなる時は載せることをやめる時があります。また、少ない子の日記や作文は、今度は使えないかと期待して見続けます。待つのはうんと辛いのです。それでも待ちます。どう扱うかも、うんと考えます。
 順番に載せるんだったら、作る時間は半分で間に合うでしょう。と、私の考えを述べましたが、これも、狭い勝手な思い込みでしょう。我慢してつきあってください。

◆Sさんのノート
 一部の方の感想に対して、まじめに考えを載せられたことは、「一人ひとりを大切にする」先生の姿勢なのでしょう。書かれてあることはよくわかりますし、すべてもっともなことです。
 ただ、気になったのは最後の2行です。書く必要はなかったと思います。狭い、勝手な思い込みとは、先生自身おもっていないはずです。狭いと思っていないから、自信があるのです。自信があるから、堂々と主張なさっているのです。思っていないことは書かない方がいいです。

 便りを読んでくれている同僚たちに、Sさんのように言われたことは一度も記憶にない。時間的余裕がないこともあるだろう。私にとって言えば、そこをSさんに埋めていただいたとも・・・。Sさんが便りをていねいに読んでくださっていることと、家庭での子どもとの話し合いを多く持っておられることをも強く感じる。そして、なんて私は幸せ者だろうと。
 もう一つ、付け加えると、この年、2回だけ、子ども一人だけの文で便りの号を埋めたことがある。その1度目になる49号の最後の残り少ない余白部分に、私は、次のような文を添えた。「Kさんは、2年間あずかった『ペロ』(*犬)が帰ることになった時の思いを日記に書いてきました。それを読んで、『もっともっとかくことがあるはずだから、もう一度書いてほしい』と言いました。Kさんはさっそく「夜11時までかかって書いた」と持ってきたものです。現在と過去をうまく織り交ぜて、見事にその思いを書きました。Kさんは今絶好調です。」と。
 これについて、Sさんは、「すばらしい日記でした。すばらしいな、いいなと思うと、たいてい2度目の書き直しです。つまり、全力投球の結果生まれてきている作品です。相手にその力があるとみる。そして、その力を出させる。まさに教育の根源の “ もっているものを引き出す ” 作業を、先生はなさっていると感嘆しています。」と書いてくださった。Kに読ませることはできなかったが、私は、とてもいい気分になり励まされた。

 話は飛ぶが、退職直後、2年間、宮教大の非常勤講師を勤めたことがある。学生に、「試験はしないので、5時間に2回レポートを出してほしい」と言い、私は時間の余裕ができたので、レポートに対する感想を次の時間に学生のレポートの文量ぐらい書いて返した。それを手に読む学生の姿は小学生のそれと全く変わりがなかった様子に内心驚いたことを今も忘れない。最後の時間に受けたレポート提出者には「あとは来ないので、感想は勘弁してください」と言うと、「住所を書くのでぜひ送ってほしい」と、何人かの住所を預かったことも記憶にある。また、オレには考えられないことだが、「自分の書いたものに先生に書いていただいたのは初めてです」と言われたことも・・・。( 春 )

本屋先生、宮城野高校で「能」の授業

 もともと夏は好きですが、あまりにも夏が来るのが早すぎませんか? 予想を超える暑さに身体がついて行きません。マスクをして歩いていると、何となく朦朧としてきます。みなさんも熱中症をはじめ、体調にはくれぐれも気をつけて下さいね。

 さてセンターつうしん107号の発行も終えて一息ついているところですが、2週間ほど前に、大学時代だけでなく、今もセンター主催のゼミナールSirubeなどでお世話になっている本屋禎子先生から「宮城野高校でおこなった『能』の授業を『仙台市能楽振興協会』のHPにアップしたから読んでみて!」、と連絡をいただきました。

 ついつい忙しさにかまけて拝見できていなかったのですが(本屋先生申し訳ありません)、先日、拝見してびっくり! 日本の古典芸能の授業なのに数学や科学、哲学など生徒たちの興味関心を広げながら、生徒たちを能の世界に導いて行きます。まさに数学教育を専門とし、教育思想・哲学をも積極的に学ばれる本屋先生ならではの授業です。先生ご自身が生き生きと授業されている様子がとても印象的でした。一番楽しんでいたのは、きっと本屋先生なのかもしれませんね。

 みなさんにもご覧いただけたらと思い、以下に紹介します。(キヨ)
sendai-nogaku.org

季節のたより102 イチヤクソウ

 森の林床に咲く花 光合成し菌類からも栄養を得る

 梅雨の晴れ間に治山の森を歩いて、林床に咲くイチヤクソウの花を見つけました。
 根もとに集まる丸い葉の間から花茎をのばし、その先に小さな笠をかぶったような白い花を咲かせています。
 森の林床に咲く早春の花たちは、森が暗くなる前に急いで花を咲かせ、実を結んで消えていくのに、イチヤクソウは木々が緑の葉を広げ、林床が暗くなる頃になぜか花を咲かせます。
 清楚な雰囲気の花ですが、目立つこともなくその名も知られていないのか、山道を歩く人も気づかずに通り過ぎる人が多いようです。山野草の好きな人は、見つけてもそっとしておいてくれるのでしょう。治山の森では、毎年同じ場所で花を咲かせています。


         森の林床にひっそり咲くイチヤクソウの花

 イチヤクソウはツツジ科イチヤクソウ属の常緑の多年草です。かつてはイチヤクソウ科とされましたが、旧イチヤクソウ科は新しいAPG植物分類体系ではツツジ科に含められています。
 日本では北海道、本州、四国、九州に分布し、県内でもこの季節に丘陵から低山のやや湿った林床に自生している姿を見ることができます。

 イチヤクソウは、漢字では「一薬草」と書きます。牧野富太郎著の『我が想ひ出』(北隆館)には、「イチヤクソウは薬草で、此の薬一つあれば、何でも効くと謂はれる。そして往々、其葉面に白斑の在るものも在って、これを、カッカフサウ(亀甲草)、或いはバイクワカウ(梅花甲)と謂はれる」とあります。
 一つの薬の草、つまりイチヤクソウひとつでさまざまな病気に効く万能薬という意味を持っていて、民間の薬草として頼りにされる存在だったようです。
 今もイチヤクソウは、ロクテイソウ(鹿蹄草)の名で全草を日陰干ししたものが、生薬として親しまれています。ロクテイソウ(鹿蹄草)とは、シカが踏み荒らしそうな林下に生えている野草という意味です。

 
     秋 葉は緑のままです。(11月)    春 花茎が伸びてきました。(4月) 

 英語の「Wintergreen」には、イチヤクソウという意味がありますが、これは冬でも常緑であることに由来したものです。
 イチヤクソウの葉は丸型からやや卵型で、厚みと艶があるので、鏡草(カガミソウ)という古名で呼ばれることもあります。
 葉は長い柄があって束になり地上から生えているように見えます。それでこのような葉を根出葉(こんしゅつよう)または根生葉(こんせいよう)と呼んでいますが、茎が無いわけではなく極端に短いのでそう見えるのです。タンポポ、ダイコンなどの葉も同じしくみになっています。

 緑の葉で冬を過ごしたイチヤクソウは、早春の花たちが咲き終えた頃に、花茎を伸ばします。その先に小さなつぼみをつけるのは、6月になってからです。

   
 つぼみがつく。(6月)   ガク片の長さが目立ちます。       膨らむつぼみ(6月末)

 スプリングエフェメラルといわれるカタクリニリンソウショウジョウバカマなどの早春の花たちは、森が明るいうちにいち早く花を咲かせ、受粉を終えて散っていきますが、対照的なのがイチヤクソウの花です。つぼみが膨らむ頃は、森はすっかり濃い緑に覆われます。林床に日の光が届かなくなってから、やっと花を咲かせるのです。

 イチヤクソウの花期は6~7月。まっすぐ伸びた花茎に白い花を数個つけ、下向きに咲きます。写真を撮ろうとしてカメラを構えると、背丈が低いので、写るのは花の後ろ姿だけですが、後ろ姿に風情がありウメの花に似ています。

 
上から見るイチヤクソウの花姿    ふっくらした花びらと緑色のガク片もよう

 花を正面から写そうとすると、思い切りカメラを低く構え、下から見上げるようにしなければなりません。以前は地面に寝転んで撮っていましたが、その後ローアングルファインダーで撮影でき、最近では可動式の液晶モニターで楽に撮影できるようになりました。でも地面に寝転んで撮影していたときの、大地や花との一体感が感じられません。便利さと引き換えに人間の感性はこのようにして失われていくのでしょうか。

 花を下から見上げると、花びらが5枚、雄しべが上に固まって10個、雌しべ1個がゾウの鼻のように飛び出しているのが見えます。このユーモラスな雌しべが、山地などでイチヤクソウの花を見分ける際の特徴になります。

 
 花は8~10個ほどつけるときも。   ゾウの鼻のように伸びるのが雌しべ

 イチヤクソウは低地に見られる花ですが、高山に自生する花の仲間もいます。
 蔵王連峰を歩いたとき、馬の背から熊野岳付近で、マット状に生えたガンコウランのなかに点々と咲く白い花を見つけました。花は少し赤味を帯びて、花数もイチヤクソウより多くついています。調べると、高山から亜高山帯の草地や瓦礫地に見られるというカラフトイチヤクソウの花でした。

 
 カラフトイチヤクソウ    ガンコウランのなかから立ち上がっています。

 同じく蔵王連峰の賽ノ磧で見つけたのがベニバナイチヤクソウです。ハイマツの下の草むらに小さな群落を作って咲いていました。その名のように花全体が紅色を帯びていて、イチヤクソウの仲間のなかでは華やかでよく目立ちます。
 ベニバナイチヤクソウは、深山から亜高山帯の腐植に富んだ樹林下で育ち、大きな群落をつくることが多いそうです。

 
  ハイマツの下に群生するベニバナイチヤクソウ     紅色が華やかです。

 多くの山野草が野山から姿を消して行く原因に、盗掘の被害がありますが、イチヤクソウの仲間も例外ではなく、年々その数を減らしています。
 イチヤクソウは共生菌の力をかりてそのいのちを維持しています。掘り返して持ち帰る人は、生息地から切り離された栽培環境では生きられない花であることを知っているのでしょうか。

 植物の約80%は地下の根や茎で菌類と共生し、光合成によって生産した栄養を菌類に分け与えて、代わりに窒素やリンをもらっているといわれています。
 植物のなかには、葉緑素を持たず、光合成をやめて、菌類から養分を奪って生きている植物もいます。身近に見られる代表的な植物が、ギンリョウソウ(季節のたより53)です。ギンリョウソウは栄養を完全に菌類に依存しているので、「菌従属栄養植物」と呼ばれています。
 イチヤクソウの仲間は、葉緑素のある葉で光合成しますが、その栄養の不足分を根に共生する菌類から吸収しています。完全に菌類に依存していないので、「部分的菌従属栄養植物」(又は混合栄養植物)と呼ばれます。

 イチヤクソウがつぼみから開花まで時間をかけるのは、この「部分的菌従属栄養植物」であるからなのでしょう。自分の葉で栄養をつくり、林床の菌類から栄養をもらって、花を咲かせるためのエネルギーをじっくり蓄えていると考えられます。

 イチヤクソウは花が終わると実をつけます。実は蒴果(さくか)といい、その実が乾燥すると裂けて種子を大量に放出するしくみになっています。種子は小さく軽く、細長い形の両側が羽のようになっていて(下右図)、わずかな風でも空中を浮遊しながら、どこまでも遠くに飛んでいきます。

   
  雌しべの形を残した  乾燥した実。微細種子といわれる  ベニバナイチヤクソウの種子・スケール  
  まま実を結びます。  小さい種子が入っています。    1㎜。「植物化学最前線」の橋本靖論文
                              の写真図からの引用です。

 内藤俊彦氏の論文「種子」には、舘美代子、石川茂雄両氏が、野生種457種の種子の重さを測定した記録が紹介されています。そのなかにベニバナイチヤクソウの種子の測定記録がありました。
 ベニバナイチヤクソウの種子の重さは、千粒で0.9ミリグラムで、測定した野生種のなかでは、寄生植物のナンバンギセル(千粒0.7ミリグラム)についで2番目に軽い種子という結果でした。(「種子」内藤俊彦 弘前大学教育学部紀要19-B)

 極限まで小さく軽くして大量に生産されたベニバナイチヤクソウの種子は、数十個の細胞からなる小さな胚と種皮のみで、発芽の際の栄養源となる子葉あるいは胚乳を持っていません。これらの種子が落ちた場所には多様な菌類が生息していますが、そのなかから相性のいい共生菌と出会い、栄養分を得ることができるかどうかが発芽のカギとなるようです。

 橋本靖氏(帯広畜産大学)は、同じくベニバナイチヤクソウの種子発芽の際に見られる共生菌の調査を行っています。
 フィルム写真のスライド用マウントに種子入りネットを挿んだものを、合計990パック作成、環境の違う土壌にそれぞれ埋めて発芽のようすを調査したところ、発芽が見られたのは74パックでした。その発芽実生のすべてから、ロウタケ科のごく近縁の菌だけが検出されました。この菌は、ベニバナイチヤクソウの親の根についている共生菌とは全く関係のない特異的な腐生菌でした。また、発芽できたベニバナイチヤクソウは、葉の成長に伴って菌を乗り換え、成熟個体では周囲の樹木が利用する多様な菌類と関係を結びながら、そのライフサイクルのなかで共生菌を変化させているようであるということです。(「部分的菌従属栄養植物ベニバナイチヤクソウの発芽生態から見た菌従属栄養植物の進化」橋本 靖 2014植物科学最前線5:120-129)
 ベニバナイチヤクソウは、発芽して成長し、花を咲かせて実を結ぶまで、多様な土壌の共生菌と巧みに関係を結びながら生きている姿が見えてきます。

 イチヤクソウの仲間は北半球に30種ほど知られています。
 レイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」の日本版(上遠恵子訳)の新潮社版の表紙カバーは、赤くかわいい花の写真でデザインされています。写真説明には、この花はアメリメイン州に育つイチヤクソウの仲間とありました。
 撮影は写真家の森本二太郎さん。「センス・オブ・ワンダー」の舞台となるアメリカ北東部・メイン州の海岸沿いの森を撮影してきた方です。
 カーソンと甥のロジャーは、森の探検で、きっとこの花にも目をとめたのではないでしょうか。

 
      治山の森のイチヤクソウの花      メイン州のイチヤクソウの仲間 

 北半球に分布するイチヤクソウの仲間も、メイン州のイチヤクソウの仲間も、そして、治山の森、蔵王連峰に育つイチヤクソウの仲間も、森の林床や草原、瓦礫地などの、必ずしも良い生育環境とはいえないところに育つ植物です。
 かれらは、その地で生きて子孫を残すために、光合成で栄養をつくり、菌と共生し菌を利用して生きるという独自の進化の道を歩んでいるようです。
 森林土壌中では、異種の植物が菌糸によって繋がり,養分のやりとりが多様に行われ、それが地上の森林の姿を支えています。山野草の一輪の花も森の生態系のなかに存在しています。野の花は野に咲いてこそ美しいと思う感覚は、自然の摂理にかなうものなのです。(千)

◇昨年6月の「季節のたより」紹介の草花

子どもたちのために!

 過日6月21日のNHKクローズアップ現代」で歌手の桑田佳祐さんに対する独占インタビューが放送されました。その中で、桑田さんが作った楽曲『時代遅れのロックンロールバンド』が紹介され、その歌詞に込めた思いを語りました。その歌詞には「♫この頃『平和』という文字が朧げに霞んで見えるんだ。意味さえ虚ろに響く~子供の命を全力で大人が守ること、それが自由という名の誇りさ。No More No War~♫」。という平和へのメッセージ。

 この曲を聴き歌詞を読み、「あ、これはあれと同じだ」と思い出したことがありました。それは、センターのホームページにある6月4日の「ダイアリー」で前所長の菅井仁さんが紹介しているケストナーの『動物会議』の絵本です。私は読んだことがなかったので、すぐに本屋さんに注文し、読みました。世界中の動物たちは、人間には任せられないと「平和のための会議」を開くのです。その時のスローガンが『子どもたちのために!』なのです。

 今、オーストリアのウィーンで核兵器禁止条約の第1回締約国会議が開かれています。この会議には、条約に参加していないNATO加盟のドイツやオランダ、ノルウェーもオブザーバー参加し演説をしています。ところが、「被爆県の首相」を売りにしている岸田首相は、被爆者の強い願いにも関わらす、この核兵器禁止条約に背を向け、オブザーバー参加もしません。そのため会議では、核保有国と非保有国の「橋渡し役をすると公言している岸田内閣・日本政府はその役割を果たしていない」と批判されました。

 参議院選挙が始まりました。今こそ「子どもたちのために!」核兵器のない世界、戦争のない世界をつくることに先頭に立つ日本政府を求めていきましょう。「自由という名の誇り」大人の責任として。(高橋達郎)