mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

ジョルジュ・ルオー と 大岡信 ~「純粋について」~

 今、宮城県美術館ではルオーの企画展「ルオーのまなざし 表現の情熱」が行われている。先日、そのルオー展に行ってきた。混んでいるのだろうと思ったが、台風が近づいていたからだろうか美術館はとても静かだった。

 さしてルオーの絵を知っているわけでも好きなわけでもない私が、なぜルオー展を見に行ったのかといえば、大岡信さんの「純粋について」というエッセイに、ルオーの絵が出てくるからだ。エッセイは、純粋とは何かを大岡さんの経験にもとづきながら論じている。その中にルオーの展覧会に行った時のことが出てくる。

 大岡さんはルオーの絵について「かつて見た色々な画家のうち、まざまざと思い返せる点で、ルオーにまさる画家がいないことも確かだ」と述べ、思い返すと「あのずっしりと盛りあがった絵具の量感をまざまざと再び感じ、同時に、油絵具の美しさの絶頂を示しているかに思えるほど美しく深い黄色や黒の前にたたずんでいたぼく自身をありありと見る。」という。そして、「ルオーは絵具をずっしり盛りあげることによって、絵具を越え、色に到達しているのだ。」とも述べている。

 その大岡さんのいうルオーに会ってみたいと思って企画展に行ったのだが、ルオーの盛りあがった絵具の量感は感じたものの、絵具を越えて色に到達しているという、その感性を自らのうちに見出すことは残念ながらできなかった。
 機会があったらもう一度ルオーに、そして大岡さんに会いに行こうかと思っている。そして、大岡さんのいう絵具を越え色に到達したルオーを(いつか)感じてみたい。 

 ところで大岡さんは、ルオーを通じて「純粋」を語ろうとしたのだった。(ちなみにエッセイでは、音楽のもつ純粋についてベートーヴェンとバッハの音楽の比較などを通じて語ったりもしている)。

 「純粋」を国語辞典で引くと、「混じりけのないこと。雑多なものがまじっていないこと」「邪念や私欲のないこと。気持ちに打算や掛け引きのないこと」「そのことだけをいちずに行うこと。ひたむきなこと」などと出てくる。私たちは日ごろある物や行為の中に不純物や夾雑物がないこと、あるいはそのような様のなかに純粋を感じたりイメージしたりしている。ところが大岡の考える「純粋」は真逆だ。

 ある芸術作品が純粋であるということは、素材が純粋であることではない。雑多な素材がその素材に対してはこれ以上の処理方法がないと思われる仕方で組織化されているとき、ぼくらはそこに純粋をみる。素材を組織するにあたって、作者がより感性の秩序に頼っていようとも、より多く知性の秩序に従っていようとも、それは重要なことではない。必要なことは作者の関心が局部に限定されることなく、総体を把握し、総体を組織していることだ。
 純粋さというものがこうしたものであるかぎり、作者の対決する素材は雑多であればあるほどいい。なぜなら素材が雑多であればあるほど、それらの組織化によって獲得される純粋さの純度は高まるからだ。純度は素材の抵抗に比例する。もしくは比例すべきである。 

と語り、「ルオーは絵具をふんだんに使い、捨てては盛りあげるという行為の繰返しを通じて、絵具という泥を色にまでたかめたのだと。」 ゆえにルオーの絵が、彼のなかで光を放つのだ。

 ジョルジュ・ルオー展は、10月9日(月・祝日)まで行われている。芸術の秋、機会があったら、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。( キヨ )

   f:id:mkbkc:20170930130331j:plain