mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

『高橋源一郎の飛ぶ教室ーはじまりのことば』を妄想する

 高橋源一郎さんの高校生公開授業を終えて、改めて源一郎さんの本をなにか読みたいと思い、年末から年始にかけて手にしたのは『高橋源一郎飛ぶ教室—はじまりのことば』(岩波新書)でした。

  

 本書は、著者の高橋源一郎さんがパーソナリティーを務めるNHKラジオ番組「高橋源一郎飛ぶ教室」の番組冒頭で、リスナーに語りかける「はじまりのことば」を第1回(2020年4月)から2年間、85回分をまとめたものです。
 1回分は、文字数にすると1,050字前後で岩波新書の2ページとちょっと。通勤途中の地下鉄やちょっとした合間に読むことのできる手ごろな分量ですが、読み進めていくうちにあることが気になり始めました。

 それは「2ページとちょっと」の「ちょっと」です。ほとんどの話が「2ページとちょっと」、つまり3ページ目は数行(1行から3行程度)の文章が綴られるだけで、あとは余白・・・なのです。その「ちょっと」「ちょっと」「ちょっと」が気になりはじめて、次第にそれは《どうしてこういうページの組み方をしたのだろう?》との疑問に膨らんでいったのです。

 みなさんは、どう思います? そもそものラジオ番組の冒頭3分程度の話という制約が、結果的にそのような原稿量になっただけと言ってしまえばそれまでのことなのですが、数行文章が綴られただけで、後は真っ白なページなんて、もったいないじゃないですか。それが毎回続くのです。1ページの行数を数行増やせば、2ページに収まる分量です。それをあえてそうはしない。それゆえに、そこにある意図的なもの感じるのです。そんなふうに思いながら、改めてこの本を眺めまわしてみると、次のようなことに気づきます。

 一つは、この「はじまりのことば」は、まさに「飛ぶ教室」という教室の、いうなれば授業の開始を知らせる「ことば」という性格を持っていることが。二つに、したがってパーソナリティー高橋源一郎さんは、教師という立場・役割にあるということが。さらに高校生公開授業のなかで「教師とは、生徒が学べるように条件を整えるコーディネーター、サポーター」と語っていた源一郎さんの言葉も思い出されてきます。
 つまり「はじめのことば」によって開始される「飛ぶ教室」における学びは、この「ちょっと」と真っ白なページも含めて完結する一つの学びの世界(教室)を示している、そう考えるべきではないのかということが。だとすれば、明らかに本書の余白は単なる余分な、無意味なものとしての余白ではなく、意味あるものとしての余白だということが見えてきます。それは「飛ぶ教室」を主宰する教師・高橋源一郎さんから「生徒」である読者・私たちに向けられた一つの隠されたメッセージと言えるかもしれません。では、そのメッセージとは? 

 それを解くカギは、この「はじまりのことば」の内容が、どれもみな高橋源一郎さんの体験や経験に彩られ縁どられているということ。と同時に、それが「飛ぶ教室」の学びの起点・基点でもあるということ。つまり「飛ぶ教室」の学びは、「私」からはじまる「私」の学びだということにあるように思うのです。
 そして、この本が「飛ぶ教室」として、一つ一つの「はじまりのことば」が、それぞれに学びとして成立するためには、そこにはまた生徒(読者)それぞれの「ことば」がレスポンスとして記されなければなりません。
 「ちょっと」の後の余白は、そのような読み手であり、生徒である私たち一人ひとりの経験や体験をつうじて書き記される、それぞれの学びの開かれた余白としてあるのではないでしょうか。

 以上は、一つの妄想であり創造であり、そしてまた希望でもある。(キヨ)