mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

加藤先生の高校生公開授業を終えて

 ~ 教え子からの応答責任として ~ 

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 加藤公明先生の高校生公開授業が終わりました。開催に至るまでは高校生が何人参加してくれるだろうとヤキモキした時期もありましたが、ふたを開けてみれば、なんと定員30名を大きく超えて38名の参加で当日を迎えることができました。また高校の先生方をはじめ小中の先生方、また保護者の方々などにも参観いただきました。当日の運営では十分に配慮が至らずご不便ご迷惑をかけたこともあると思いますが、お許し下さい。
 改めてこの企画に参加ご協力いただいた皆さんに御礼申し上げます。どうもありがとうございました。

 さて加藤先生は、高校時代の私の恩師です。といってもクラス担任ではありませんでした。理系クラスの日本史を教える担当教師として1年間お世話になったという程度です。しかし、当時から私たち生徒をその気にさせながら考える日本史授業を実践し、また私たちもその授業を理系らしく楽しんでいたように思います。
 今回、授業を参観しながら、にわかに高校時代の記憶も蘇り、いつの間にか高校生気分に戻っていました。

  授業後に、参観していた方から加藤先生は当初予定していた通りの授業ができなかったのでは?との質問を受けました。そう聞かれて、私もそうだろうと思いました。というのも参観者に受付で渡した資料のうち、実際に授業で使われたのは1枚だけでしたから。本当は他の資料も授業で使うつもりでいたのだろうと思います。ですが、改めて考えてみると計画通りに行かないことも加藤先生の中では最初から織り込みずみ。生徒の出方次第でいかようにでも応じる構えだったのではないでしょうか。そう思ったことなどを授業の中から点描的に抜き出しながら感想をと思います。

 ◆えっ!そこから授業はじめる?

 一つは、授業冒頭での席替えです。加藤先生は会場に到着すると、しばらくして私に「生徒の席は決まっているの?」と訊ねました。生徒たちの席は、これまでもずっと会場に来た順に自分で自分の席を決めてもらうことにしてきました。誰かに決められるのではなく、自分で自分の席を決める。そこから公開授業に参加してほしいと思ってきました。学校ではないからこそ、些細ではありますが、そういう自由さから始まっていいだろうとどこかで思ってもきました。しかし、そうするとどうしても同じ学校の子たちが同じ場所に固まりやすいということにもなるのでした。でも、それは様々な学校の子たちが集まるのだから仕方ないことかなあと思ってきました。

 ですが加藤先生は、それをよしとはしませんでした。せっかくいろんな学校の子たちが集まるのに、それでは面白くない、もったいないと思ったのでしょう。自分の学校以外の生徒たちと交流し、学ぶことにこそ意味があると判断したのだと思います。授業が始まる直前にもかかわらず席決めのくじを黙々と作り出し、授業冒頭での席決めの強行に及んだのでした。見ている私は、これで授業がうまく進むだろうかとハラハラしました。予定通りの授業を行うことを優先するのであれば、あえてそのような席決めを行う必然性はなかったはずです。授業の中身に直接関わることではないですが、そういうところにすでにこだわりを持ちながら授業を考えるところに、逆に加藤先生らしさを感じましたし、また根っからの社会科教師なんだなあとも思うのでした。

 結果的には席替えは大成功だったように思います。どんな先生だろう、どんな授業が始まるのだろうかと緊張した空気が会場を、そして生徒たちをも包んでいたのですが、この突然の席替えで生徒たちの緊張は一気にほどけ和やかな雰囲気になったのですから。

◆授業は、1コマ60分なんだけどなあ~

 公開授業は、1コマ60分の2コマです。授業は、時宗の開祖である一遍の伝記を描いた絵巻「一遍上人絵伝」の「福岡の市」を扱いました。生徒たちは、その市にどのような品物を売る店が描かれているかを見つけ出し、あるいは一枚の絵巻のなかにどのような時間認識が描かれているかなどを理解することを通して、当時の人々のくらしや意識、時代イメージを作り上げていきました。

 生徒たちは、それこそちょっと見ただけでは見落としそうな描写からもイメージを膨らませて絵に描かれているお店や市の様子、これは何だろう不思議だなあと思うことなどをそれぞれに挙げていきました。加藤先生は、それらを一つひとつ取り上げながら、それが何を描き、そこからどのようなことが見えてくるのかを丁寧に生徒たちと考え応えていきます。参観している私も加藤先生と生徒とのやりとりに惹き込まれながら話を聴きました。それはそれはとても楽しい至福の時間でしたが、60分が過ぎても1コマ目の授業が終わらないのです。生徒が取り上げた一つひとつを取り上げて、《きみは、どうしてそう思ったの》《なるほどね》などとやりとりしながら、授業が終わる気配がないのです。もうこれで終わりだろうと思っていると《もうすべて(生徒が絵から見つけ出したもの)取り上げたかな。これがまだ残っていたか》などと言いながら、さらに授業は続きます。徐々にこの授業はいつまで続くのだろうと心配になってきました。結局1コマ目が終わったのは、予定時間を20分以上過ぎてからでした。

◆責任という視点から授業を考える

 授業最初の席替えにしろ1コマ目の時間の超過にしろ、計画通り予定通りの授業展開を優先しようと思えば、それはそれでどうにでもできたのではないかと思うのです。でもそうしなかったというところに、教え子の一人である今の私は、加藤先生の、教師としてのすごさを感じるのです。それを一言でいうなら「責任」という問題です。

 このDiaryで、いじめ論を展開してくれている清眞人さんは著書のなかで「責任」について、次のように言っています。

「責任responsibility」とはそもそも「応答能力response- ability」があるということを意味し、エーリッヒ・フロムがいうようにそれは本質的に自発的な能力なのであって、「誰かに対して『責任がある』と感じることは、『応える』ことができ、その用意があるという意味である」(『愛するということ』)のだ。                  ―『経験の危機を生きる』よりー

 また同様のことを鷲田清一さんも指摘しながら、さらに「ここではひととしての責任が他者からの期待に応えることとして意識されている。彼らはじぶんがなすべきことを、じぶんが何をしたいかというほうからではなく、じぶんが何を求められているかというほうから考えてきたのである」(『大事なものは見えにくい』)と述べています。

 席替えという思わぬ授業の展開に「えぇ~」と驚きの声を上げながらも応えた高校生たち、そしてその高校生が一枚の絵巻物から見つけ出した市の様子や出来事、それらへの疑問や不思議に応えることに徹して授業をした加藤先生。そこから見えてくるのは相手に応えようとする「責任」ということではないでしょうか。

 ところで今日、教師にとって誰に対する応答として「責任」を考えるかは大きな課題になりつつあるように思います。つまり教師が、その応答すべき責任の相手を目の前の子どもや生徒と考えるのか。そうではない文科省教育委員会、あるいは社会や企業と考えるのか。そういう岐路に教師たちは、いつの時代も立たされてきたのかもしれません。
 今回の加藤先生の授業は、歴史学に対する深い理解と見識、そして教材研究の大切さはもちろんですが、授業は誰にどのような責任を持つべきなのかという、そういう根本的な問題も私たちに提起してくれていたように思いました。

 加藤先生ありがとうございました。また仙台・宮城にお出で下さい。(キヨ)