やっぱり早起きは、三文の徳
このところ朝は、6時少し前に目が覚める。今朝はゆっくり寝ていて構わないはずなのに、なぜか5時少しすぎには目が覚めた。一週間の疲れで体は心地よい疲れを感じている。このまま横になっていれば、そのうち眠気が来て二度寝へと落ちるはず。でも早起きは三文の徳だと、そのまま起きた。朝飯をそそくさと一人で食べ、ごそごそしてたら、よっちゃんが起きてきた。部屋の時計を見ながら「この時計遅れてるんじゃない、今、何時? ちょっとテレビつけて」というから、(昨夜録画して見ていた「生さだ」をしぶしぶ止めて、)机のうえのリモコンをぽちぽち押したら6時少し過ぎ、ちょうど3月の末に亡くなられた奈良岡朋子さんのドキュメンタリー番組が始まったところだった。
奈良岡さんが亡くなられたのは、テレビニュースで知った。またひとり、すてきな方が亡くなられてしまったと思った。特別番組でもやらないかなあと思っていたので、今日は ❝ いい日だ、憑いてる ❞ と思った。
奈良岡さんの事は、実はほとんど知らない。お芝居や朗読を見たり聞いたりしたこともないし、もちろん会ったこともない。普段は、まったく忘れている。でも、その声は、いつも聞き覚えのある通奏低音として時代のなかにあった気がする。奈良岡さんのことを書きながら、同じように親近感を感じる人を思い出していた。それは、詩人の茨木のり子さん。どこか、二人とも他人のようには思えない。
なぜなんだろうと思いながら見ていて、わかった。二人のまなざしが、おふくろのまなざしと一緒だっていうことが。日本を代表する詩人と演劇人のまなざしを、一介の庶民のおふくろのまなざしと同列にするな!とお叱りを受けるかもしれないが、そうわかってしまったのだから仕方がない。
まなざし以外に、実は3人に共通していることがある。それは3人とも昭和1ケタ、しかも前半の生まれ。茨木のり子さんは1926年(大正15年・昭和元年)生まれ、我がおふくろは1年後の1927年(昭和2年)、そして奈良岡朋子さんは1929年(昭和4年)。つまり、茨木さんの言葉を借りれば「わたしが一番きれいだったとき」に、戦争を経験している。茨木さんは詩のなかで
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした
わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった
わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆発っていった
これらの光景を、3人のまなざしは眼差している。その光景を、瞳の奥に湛えている。そう感じた。
いつの間にか、横で一緒に見ていたよっちゃんに「おふくろにどこか似てるんだよね」と言ったら、いつもはあまり同意してくれないよっちゃんが「そうだね」と、言ってくれた。ちょっと気をよくして「目に見えない力が、この番組と出会わせてくれたんだな」と浮かれて言ったら、今度は「違うでしょ。私が何時か聞いたからでしょ」と、釘を刺されてしまった。確かに我が家の、目に見える「カミさん」はよっちゃんなので、もちろん逆らいませんでした。(キヨ)
ちなみに、奈良岡さんのドキュメンタリー番組は、再放送をします。ぜひ見たい方は、ご覧ください。 www.nhk.jp