mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

茨木のり子さん「詩集と刺繍」に誘われて

 今月13日の「こくご講座」の開催に向けて準備をしていますが、コロナの感染状況は減少傾向にあり、この様子なら無事開催できそうです。
 さて今回は詩がテーマなので、自宅の書棚からうっすら埃をかぶっていた詩集をぱらぱら眺めていたら、茨木のり子さんのこんな詩と再会。

      詩集と刺繡

詩集のコーナーはどこですか
勇を鼓して尋ねたらば
東京堂の店員はさっさと案内してくれたのである
刺繡の本のぎっしりつまった一角へ

そこではたと気づいたことは
詩集と刺繍
音だけならばまったくおなじ
ゆえに彼は間違っていない

けれど
女が尋ねたししゅうならば
刺繡とのみ思い込んだのは
正しいか しくないか

礼を言って
見たくもない図案集など
ぱらぱらめくる羽目になり
既に詩集を探す意志は砕けた

二つのししゅうの共通点は
共にこれ
天下に隠れもなき無用の長物
さりとて絶滅も不可能のしろもの

たとえ禁止令が出たとしても
下着に刺繡をするひとは絶えないだろう
言葉で何かを刺しかがらんとする者を根だやしにもで
 きないさ
せめてもとニカッと笑って店を出る
茨木のり子著『自分の感受性ぐらい』より)

 「無用の長物」と言えば、確かに無用の長物かもしれません。詩なんてなくても、日常生活はまわっていきます。事実、私もずいぶん詩集を手にしていませんでした。その一方で、私たちのたわいのない日常や出来事に、そっと光を当てて見えないものを見えるようにしてくれたり、言葉にならない、できないことを言葉にしてくれたりと、日常はなくてもいいのだけど、詩はやっぱり私のそばにずっとありました。

 茨木さんは、「無用の長物」と言いつつ、「さりとて絶滅も不可能のしろもの」とも言います。詩は絶滅危惧種と認めつつも絶滅は不可能と言う、この茨木さんの確信めいた物言いの根拠はどこにあるのでしょう? 詩の中にそれを求めるなら「たとえ禁止令が出たとしても/下着に刺繍するひとは絶えないだろう/言葉で何かを刺しかがらんとする者を根絶やしにもできないさ」というあたりでしょうか。

 茨木さんは、1926年生まれ。10代をまさに戦争のなかで過ごし、戦中・戦後の青春時代をうたった代表作に、きっとみなさんもご存知の「わたしが一番きれいだったとき」があります。そのなかで茨木さんは、「わたしが一番きれいだったとき/まわりの人達が沢山死んだ/工場で 海で 名もない島で/私はおしゃれのきっかけを落してしまった」とうたっています。でも、そんな「わたし」も、きっと「下着に刺繍」する、隠れたおしゃれ心は決して失わなかったのではないでしょうか。今では下着にこっそり隠れて刺繍どころか、頭のてっぺんから足のつま先までおしゃれ心は自由に花開いています。
 時代は変われど、おしゃれ心、きれいになりたいという思い、そういう人々の思いや願いはいつの時代も変わらないのでしょう。そして詩も、そんな人々の祈りや願い、苦しみや悲しみ、そして喜びや怒りをうたってきたのでしょう。だからきっと絶滅は「不可能」なのでしょう。

 茨木さんと言えば、多くの人に愛されている著書の一つに『詩のこころを読む』があります。その「はじめに」で、茨木さんは「いい詩には、ひとの心を解き放ってくれる力があります。いい詩にはまた、生きとし生けるものへの、いとおしみの感情をやさしく誘いだしてもくれます。どこの国でも詩は、その国のことばの花々です」と言います。そして、自身の好きな詩を「なぜ好きか、なぜ良いか、なぜ私のたからものなのか、それをできるかぎり検証しよう、大事なコレクションのよってきたるところを、情熱こめてるる語ろう」と。

 茨木さんの著作のようにはいかないかもしれませんが、誰にも一つや二つ、大事な(秘かな)詩やおもしろい詩があったりするのでは?
 13日の『こくご講座~ウっシっ詩~』、話題提供者のみなさんをはじめ、参加者のみなさんで、さまざまな詩の魅力が大いに語られたら素敵だなあと思っています。もちろん、そんな詩との出会いはないという人も、この機会に詩と出会えばいいのです。ではみなさん、会場でお会いしましょう。(キヨ)