mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

やさしき同僚・仲間たちのなかで ~ オレは幸せ者2~

 それは、Y中学勤務最後の年だったように記憶している。2学期末の忙しい時期だったが、連日、勤務時間終了後、町の教育委員会にみんなで出向き、冬休み期間の日宿直廃止を訴えての教育長交渉をしたのは・・・。

 交渉は進展しないなかで、全国に交渉を提起した日教組がどういう理由か、上げたこぶしをおろすように言ってきたという。
 それがなぜかわからない私たちは、隣のY小の仲間たちとそのまま交渉をつづけた。それまで言い続けてきたことを終わりにする理由はまったくないからだ。

 明日から休みに入る前日まで交渉はつづいた。その夜は忘年会も予定されており、その開始時間になっても交渉は終わらず、校長たちに待ってもらいつづけた。最後の最後になって教育長は、「これからも考えることにして、この冬は、31日と1日の2つの日直と2つの宿直については代行を置く。代行は、時間もないので各校用務員さんと教頭さんに頼むことにする。その他の日は今までどおりやってほしい」と言い、私たちも、このうえ「明日から」と言うわけにもいかず、これで交渉は終わりにし、小学校と別れて忘年会場に向かった。

 その途中、だれからともなく、「教頭のことはいいとして、私たちがやってきたものを、Nさんに代わってもらうというのはいいのかなあ・・・」という声が上がり、同調の声が広がった。
 Nさんとは、用務員さんで、自宅は隣部落にあり、単身で学校に住んでいた方なのだ。
 「忘年会も待っていてもらっているので、その話の続きは、明日9時に集まって話し合おう」という案が出て納得、会場に急いだ。
 予定時間を大きく遅くさせた忘年会だったが、いつものように賑やかに飲んで騒いで学期の終わりを締めくくった。

 翌日、約束の9時には一人も欠けることなくそろい、話し合いは驚くほど短時間で終えた。みな思いは同じで、「Nさんに代わりをさせてはならない」「Nさんに指定されてくる分は、宿日直の順序でいえば誰になるのか、その人が、勤務日誌にはNさんの名前を記入して代わりをやる」「代わりをやる2人には、みんなでカンパして慰労1本(酒)」ということに話はまとまり、該当する2人も異存はなく解散し、その冬休みは終わった。
 私は、交渉のことよりも、忘年会の翌日9時にだれ一人遅れることなく集まり、短時間だったが、みんなで話し合った、あの日のことはいつまでも忘れない。以来そのことは、私が職場を考えるときの原点になりつづけた。あの日をくぐらなければ、ずいぶんいい加減な私を過ごしたに違いないと今になるも思う。

 その年の宮城民教連「冬の学習会」は鳴子会場だった。夜の分科会が終わり、その後、いつものように有志での飲み会になった。そのなかで、暮れの出来事を自分の中に閉っておけなくなった私は、教育長交渉時の終わりのことを話した。
 その席に、山形から体育分科会に参加の小関太郎校長が入っていた。小関さんは私の話をうけて、「私は、うちの職員には、全国で宿直が廃止されても、うちの学校だけは宿直を止めないでくれと言っている。なぜかというと、学校の好きな子どもというものは、朝食を半分にしてでも学校に走ってくることがあるものだ。その子たちが学校に駆けつけた時、宿直がいないために校門や昇降口が閉っていることを想像すると私は耐えられない。宿直担当者は翌日の授業が済んだらすぐ帰っていいから宿直はつづけてほしいと言っている」と言うのだった。この、子どもを第一義に考える校長の話は心地よかった。私の学校では、いつもNさんが朝早々と開けるので生徒のことは考えもしなかったが、小関さんのことばも一緒になって今も私の体に残っている。

 その小関さんとは、数年後(?)、東北6県の教育系学生ゼミが福島大学でもたれたときの帰り、学生が駅まで送るという車でご一緒した。車に乗るや小関さんは、腰にぶら下げていた瓢箪を開けて飲みだした。その心地よさそうな姿をみて、このような校長ももう今はどこにもいなくなったのだろうなと思い、駅でお別れした。( 春 )