mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

吉野弘さん「夕焼け」から、自然と人間的なるものを妄想する

 いま、3月末発行予定の(と言いつつ、4月初めにずれ込みそうなのですが・・・)「センターつうしん」90号づくりが佳境に入っている。内容は太田先生によるいじめについての論考や、昨年12月の中村桂子さんによる「高校生公開授業」の報告と感想などだ。

 ところで、しなければならないものに追われると、そこからちょっと逃避したくなる。今は吉野弘さんの『くらしとことば』に手が伸びている。
 吉野弘さんと言えば、教科書教材にもなっている「夕焼け」の作者として記憶されている方も多いのではないだろうか。「いつものことだが/電車は満員だった。/そして/いつものことだが/若者と娘が腰をおろし/としよりが立っていた。」ではじまる詩だ。その詩の中には「やさしい心の持主は/いつでもどこでも/われにもあらず受難者となる。」という大変印象的な一節が出てくる。八木忠栄さんは『くらしとことば』の解説のなかで、鮎川信夫は「現代における〈受難〉の意味を、心のやさしさに求めるところにこの詩人に特有の、人間性への愛と理解が感じられはすまいか」と評した、と述べている。

 その『くらしとことば』のなかに、「やさしさ・エゴイズム・想像力」という表題のエッセイが入っている。A、B二人の対話形式で、Aの《好きでもない人にやさしくすることはできるのか?》《できたとしたら、それは自然なことなのか、不自然なことなのか》という問いから始まって、表題にもなっているエゴイズムや想像力へと話は進んでいく。
 面白いと思ったのは、そのやり取りの中で人間の内面には「エゴイズムに忠実であろうとする『自然のままの自然』とエゴイズムを制禦しようとする『人間的な自然』」という2つの自然が同居していて、その2つの間を絶えず、往ったり来たりしているのが人間だと述べ、同時にそこから、やさしさとは「エゴイズムの持つ自己中心性を悲しげに見つめている人間の眼差しなんじゃないかという気がする」とも語っていることだ。
 生きるという目的に向かってしゃにむに突き進んでいく自己中心的なエゴイズムを生命の本質である「自然のままの自然」とし、そのエゴイズムが自分だけでなく他者にも同じようにあることを理解し認め、想像力を働かせながら他者のエゴイズムにさえコミットしようとする「人間的な自然」。吉野さんの考える人間的なるもののあり様が見えてくる。

 さらに二人のやり取りは、詩「夕焼け」の核心へと迫っていく。

電車の中で少年が老人に席を譲る―よく見る光景だけれど、そういうときの少年に好ましさを感じるのは、少年が自分のエゴイズムを裏切るという不自然なことをしたからなんだ。少年だって、席に坐って楽をしていたいのは当然で自然なのだ。その自然な欲望に忠実でない点、つまり不自然である点に、僕は人間を感じる。少年には他者が見えていると僕は思う。(中略)
それは、エゴイズムに目を開いたことによって促された人間的な想像力だともいえる。やさしさは想像力だといったほうがいいかもしれない。
良くも悪しくも人間であることのために免れることのできないエゴを見通す想像力、そこから導き出されてくる人間への配慮、それがやさしさなんじゃないか。

 「つうしん」づくりから逃れようと吉野さんを頼りにしたのだけれど、「やさしさ」といい、「自然」や「想像力」といい、どれもみな「つうしん」のいじめや中村桂子さんの公開授業(生命科学生命誌)の内容に関連していることに気づく。しばらくは、やっぱり「つうしん」づくりからは逃れられないということなのだろう。がんばります。(キヨ)