mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

八島正秋さんのこと(その4)

 八島さんの後を継いで組合専従になった私は、学校をすっかり離れてしまうことに未練が出て、会議などのない日を選んで週1回、朝1時間、原籍校のMさんのクラスで授業をさせてもらい、それから書記局に行った。もちろん、私の勝手であった。学校には遊びに行く形で行ったのだが、それを聞き知った校長から「休職者に授業をさせることは・・・」とMさんが言われたというので、1学期で止めることにした。それを、八島さんに話すと、「じゃ、オレの教室でやればいい」ということで、2学期から年度の終わりまで週1回、4年生の子どもたちと一緒した。その時の教室の温かい雰囲気は今までの私の教室にないものだった。週1時間だが、その1時間の間に何気なくかもしだされる教室の雰囲気は「教師八島」のつくりだしたものであることはまちがいなく、私の学びの場になり、現場にもどってからの私への目標を大きくふくらませてもらった。 

 さて、専従期間を入れて向山小学校在籍が10年になった八島さんは、「面積の授業」の翌年の1977年、荒町小学校に転任した。私はその前年、専従期間の3年が終わり原籍校にもどっていた。現場を離れた3年間だったが、私もまた、たくさんの方との出会いに大きな刺激を受け、新たな自分を再出発させていた。

 荒町に行った八島さんと会う機会は減ったが、八島さんの仕事はすさまじかった。『八島正秋の仕事』の中に記されている資料「八島正秋論稿目録」によると、算数・数学関係書に発表しただけの実践報告だけで10数本あり、その他にいろんな会に提出した実践報告も数多い。その中からいくつかあげてみる。「教室から『a×0t』をどうしていますか」(数学教室)、「私のした2つの授業」(明治図書)、「確かな教材解釈こそ」(現代教育科学)、「かけ算の導入『重要教材指導案集』」(現代教育科学)、「『理解力、思考力がないと思っていた子』をとらえ直した実践」(授業実践)、「小数の授業がうまくいきました」(わかる授業)などなど。

 これらの過労からだろうか、荒町4年目の3月、体調を崩して入院。短期の自宅療養もあったが、81年6月、南小泉の東北逓信病院に再入院することになった。
 私はほぼ毎日曜、病院を訪ねた。八島さんは喜んでくれた(と思う)。二人の “ 教育バカ ” は、病室であることを忘れて、毎回教育の話ばかり繰り返した。林竹二批判が目的でなかったかと思われる「現代教育科学」の話をしたときなどは、ベッドに寝ている自分を忘れたかのように八島さんは激怒し、私は大いにあわてたこともあった。

 病状はしだいに進んでいることは私の目にもわかるようになった。それでも、行けば、変わることなく教育の話に終始した。ただ、1度だけだったが、私の前で突然看護室にコールし、「注射を打ってくれ!」と言ったことがある。「まだ3時間経っていないでしょう」と断れると、「バカヤロウ!」と叫ぶのだった。よほど我慢できなかったのだ。
 私は行くたびに、「今までの疲れがたまったんだから、ゆっくり休めば治るよ」と繰り返す。そのたびに、八島さんは素直に「うん」と返事をしつづけた。
 しかし、死後、奥さんの話によると、病室の片づけをしていたとき、枕もとのケースの下に紙片があり、12月末の日付けで、家族にあてた別れの言葉が書いてあったというのだ。聞いて私は驚いた。八島さんが亡くなったのは3月26日。その直前まで私は「大丈夫、直る。」と言い、八島さんは「うん」と言いつづけていたのだから・・・。

 1982年3月26日の夜、サークルから帰ると、「八島さんが亡くなった」という連絡が入っていた。あわててすぐ、病院に向かった。何度声をかけても八島さんはもう返事をしなかった。なんと、まだ50才だったのだ。あまりに早すぎた!
 奥さんから、「葬儀委員長は春日に頼めと言われたので、どうぞよろしく」と言われた。「荒町小が考えるのではないか」と言っても、本人の希望だからぜひやってくれと。それ以上何も言えず、「やります」と言っていったん家に帰った。
 翌朝、荒町小に行った。学校では私の推測のように打ち合わせを済ませていた。わけを話して了解を得、その足で寺に行き、種々打ち合わせをした。聞き知った民教連の仲間たちがかけつけてきて、私は名ばかりで、多くの仲間の力で八島さんとお別れをすることができた。 

「教育文化」誌は、同年の6月号で「故八島正秋先生追悼特集」を組んだ。そのなかに高橋金三郎先生が「八島正秋と実践検討会」と題する一文を寄せておられる。先生は、以下のようなことを述べている。 

(略)どんな場合でも八島は実践者としての立場を棄てなかったが、教文部長としても執行委員としても献身的に行動したらしい。けれどもこの三者はそれぞれ別個の才能、別個の神経、別個の努力を必要とするものである。八島にそんな才能、神経があったとは思われない。人の数倍も努力して結局はからだをぼろぼろにした、としか私には思われない。(中略)八島正秋は誠実な実践家だったが、ろくに記録も出さず本も書かなかった。彼の実践の本物であったことをみんなにどうやって伝えたらよいだろう。

 金三郎先生は、実践家としての八島さんの最高の理解者であったと私は思っていた。ゆえに、八島さんへの期待は大きかった。八島さんが多くの実践記録を書いていることも知っていながら「ろくに実践も出さずに~」と言っている。これからにますます大きな期待をもたれていた先生はそう言わずにはおれない悔しさがあったのだと私は思った。現役生活を10年も残して仕事にピリオドを打つことになってしまい、だれにもかかりようのない金三郎先生はそういうよりほかなかったのだ。もちろん、口には出すことはなかったが、八島さん自身がもっとも悔しかったはずだが。

 そして、「彼の実践の本物であったことをみんなにどうやって伝えたらよいだろう」と先生に言われると、何もしなかった、できなかったひとりとして私はただただ首を垂れるほかない。ー おわりー( 春 )