mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

夜空に瞬く、❝すばる❞ のように(下)

 すばる教育研究所の動きはエネルギッシュで、とても、退職教師の趣味などというものではなかった。
 開設の翌年の1978年11月5日に、第2回の総会と研究発表会にあわせて、「国語教育研究」の復刻刊行記念のつどいをもつ。「国語教育研究」は、菊地譲主宰の「国語教育研究会」発行の機関誌で、1932年(昭和7年)に創刊号が出ている。創刊号の「宣言」文は菊地譲が書いている。

・・・見よ!「教育国語教育」2月号における“宮城県国語教育人展望”を。また、そこに登場する幾十の学校を。さらにまた百を越える真摯熱烈なる研究家を。(このかげに更に更に知られざる多くの研究家を思い)。かかる全国的潮流と呼応し、鬱勃たるわが県下の研究機運に動かされ、先輩の鞭撻、友人の激励を満身に浴びつつ、県下三百校の熱烈なる支持の下に、その生ける記録、忠実なる発表機関として、ここにわが「国語教育研究」は生誕した。・・・

 このとき、主宰・菊地は、宮城県女子師範学校小学校本科正教員、38歳。1937年(昭和12年)に、栗原郡姫松小学校長になり、翌年の1938年に、時局が「国語教育研究」の刊行継続を許さず、23号をもって休刊になる。
 この23冊と、菊地譲さんを語る別冊「北方の父」をまとめたものが、復刻「国語教育研究」(きた出版)である。刊行記念のつどいの案内は、大村栄・宮崎典男・菊地新の連名で出された。
 私がいただいた案内状には、次のような大村先生の添え書きがあった。

道太先生のお宅に伺って何度か話し合いを繰り返す間に、この復刻計画が芽生えたのでしたね。あれから3年越しになりますか。静かにこみあげてくる感激があります。これをみんなで、どう読破し、どう消化するか。そんなゼミが生まれてくれたらと願っています。

 ここで、この添え書きのなかにある「道太先生のお宅に伺って」について簡単に説明しておく。
 私が、1974年に教組の専従になったとき、担当の教文部に、組合史編集のための資料収集嘱託として佐々木正先生がおられた。佐々木先生のお名前は、戦前の広瀬小学校の綴方教育の公開授業のことなどで存じていたが、お会いするのは初めてだった。週1~2回の非常勤なのだったが、私には思わぬ楽しみの時間になった。しばらく経って、佐々木先生に「道太先生のお話を伺える時間をつくってください」とお願いした。二人は無二の友ということを知っていたからだ。

 鈴木道太によると、鉄窓拘禁の身となったある日、違う独房に佐々木正のいることを知る。二人は秘かな文のやりとりをつづけるのだが、ある日、次のような詩が届き、「ジーンとしびれるような感傷をあたえられた」と書いている。

灰色ノ壁ニ向ッテ坐ル/私ノ尊敬スル/渡辺崋山高野長英モ/アルイハ吉田松陰モ/一度ハカカル生活ヲ送ッタノダト/マタ/大洋ヲトビコエル鳥ハ/海岸ニ翼ヲ休メルトカ/私モコノ検束ヲ/自分ノ身体ヲ休メ 心ヲ鍛エテイルノダト/ミズカラヲ慰メテ生キテユク/幾月/幾年/コノ検束ガ続コウトモ/私ハアセルマイ/私は悲シムマイ/私は嘆クマイ/ココヲ出タソノ日ニコソ/ココニ送ッタ空白ノ頁ヲ/隙間モナク埋メルタメニ/力ノカギリ働クノダト/心ニ深ク決意ヲカタメ/今日モ/灰色ノ壁ニ向ッテ坐ロウ

 温厚な佐々木先生が、このような詩を秘かに届けたのだから、「東北の機関車」と言われた道太先生も驚くはずだ。

 間おかず、「鈴木が『いい』と言っていた」という返事を佐々木先生からいただいた。それを大村先生に知らせると「私も参加する」と言い、宮崎・菊地のお二人も加わり、佐々木先生と合わせて5人で、文化町の道太先生宅を4回訪ねたことを指している。 
 その時の聴き取りの録音を作文サークルの太田貞子さんが起こし、大村先生に見ていただき、後日刊行した「第4次カマラード」に「あのころを語る」というタイトルで連載した。

 「国語教育研究」復刊後も「すばる教育研究所」に休みはなかった。3年目には「すばる双書」の1号「教育の荒野にいどむ」が発刊され、この年の第3回総会は、主題を「教師のしごとと力量」とした研究発表・討議・講演の内容だった。大村先生の手書き、B5版4ページの案内で、最後は、以下の文で閉められていた。

 ここに翔ぼうとしない教師たちがいる。地面にへばりつくように一歩一歩を確かめて進んでいる教師の歩みがある。子どもらの、一人を、それぞれの生活に根づかせて、生き生きと豊かに伸ばそうとする、あたたかで きめの細かい心づかいがある。そのためには、これまでのあかづいた古いしきたりから、いつでも、毎日でも、いさぎよく脱皮しようとする大胆で一途な向こう見ずさもある。しかし、なによりも、本当の教育を求めての 気の遠くなるような道ぶしんに、きのうも、きょうも、そしてあしたも、ひと鍬ひと鍬、力をふるってやまない たくましさがある。

 いろんな場を使って、大村先生は、わたしたち現職教師へのメッセージを発しつづけた。

 「すばる教育研究所」は、機関誌「教育すばる」の発行、年1回の合宿研究会、そして「すばる双書」の刊行がつづいた。これら「すばる」の動きはわたしたちにとっては、その都度大いなる励ましを受けた。
 「すばる」は、このような活動と並行して、宮崎先生の手で、第1期・第2期「カマラード」の復刻作業にとりくんでいた。謄写版刷りで薄くなってしまった文字を書き写すというたいへんな作業に宮崎先生が取り組み、2000年8月、復刻「カマラード」は刊行にこぎつけた。「カマラード」については別の機会にゆずる

 一方、大村先生が取り組みたいと願いつづけたのが、復刻「国語教育研究」をテキストした研究会であった。その会が動き出したのが1996年8月。月例で「すばる土曜会」と名づけた。会場は大村先生宅。先生は、毎回資料を用意して待っていてくださった。しかし、参加者は少なく、(もったいない会)といつも私は思った。

 大村先生には、大きな仕事が残っていた。それは「大正自由教育」の執筆だった。「養賢堂からの出発」の刊行を祝う会で、先生は「次にぜひ書きたいのは『大正自由教育』」と話された。いつから始まるのだろうと私は気になっていたが、それを許す時間を先生に与えなかった。あまりに忙しかったのだ。先生の疲労を感じ、あわてて私は、「事務局と『教育すばる』の発行は私がやりますから、先生は『大正自由教育』にとりかかってください」とお願いした。
 先生は私の願いを聞いてくださり、「教育すばる」31号(1998年3月)に「『大正自由教育』の流れ」が、第1回のタイトルを「流るる水のさやけきほとり」としてスタートした。私は非常にうれしく、繰り返し読んだ。
 しかし、連載は第6回(1999年5月発行36号)「流れをさかのぼると」を掲載した直後体調を崩して、以後「『大正自由教育』の流れ」はつづくことはなかった。(なぜもっと早くにお願いしなかったのか・・)と大いに悔やんだが遅かった。その後私たちの前にふたたび元気な姿をみせることなく、2001年5月25日、召天された。

 「教育すばる」46号(2002年2月)は、「大村榮所長 追悼号」になり、機関誌「教育すばる」もまた、「すばる」を語り、大村先生を偲ぶ会員総会での話し合いの結果、休刊を決めた。
 大村先生あっての「すばる教育研究所」であり、機関誌「教育すばる」であったのだ。いや、それだけではない。たくさんの刊行物も、さまざまな研究会も・・・。( 春 )