mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

宮崎典男、ある戦後教師の歩み(3)

 1953年、宮崎先生は教職にもどった。勤務校は福島の温泉地、土湯小学校。単身で赴任したが、ほどなく家族を呼び寄せる。
 先生は、前述したように、1957年に『人間づくりの学級づくり』で日本作文の会から「第6回小砂丘賞」を受賞、その著書のあとがきに以下のようなことを書いている。

 戦後、私は宮城県にあって相も変わらず民間教育運動のなかに生きぬくことをことをちかっていました。「カマラード」による組織運動がそれでした。しかし、戦後の民主化運動が壁につきあたった1949年に私は職を退くことになりました。私の一生の最大の痛恨事でした。それから私の4年半のやりきれない時代がつづきました。
(中略)私は、私の唯一の仕事をうばったものに対する気持ちを忘れることはできません。妻子にも人知れぬ苦労のかけどおしでした。
 私はその4年半の間にも、あらゆる悪条件のなかで「教師の会」の組織活動をつづけ、第1回教育科学研究東北大会のためにも、不眠不休の努力をかたむけました。
 長い4年半でした。そして、天からとびおりるような孤独の姿でこの学校にまいおりたのでした。
 私はそのときの身のふるえるようなよろこびをわかってもらえるすべを知りません。
 私はこの土地でなににもわずさわれたくないとおもっていました。子どもと自分以外、なににも期待しようとはおもっていませんでした。しかし、そこには子どもたちの親もおり、仲間もおりました。そして、そのことによってこそ、私はどうにか教師としてのあたりまえの道をあゆむことができたのでした。(後略)

 その後、土湯生活の最後になる1957年2月の日教組全国教育研究金沢集会に参加、先生の報告を会場で聞いた麦書房の編集者篠崎五六さんから教室の仕事をまとめることを強くすすめられ、仕上げたのが『人間づくりの学級づくり』。その仕事は、その後先生が教育科学研究会国語部会との強いつながりをもつきっかけの一つにもなっていった。

 日教組全国教研集会は第1回日光集会が1951年なので、先生の参加した金沢集会は第6回になる。
 全国教研初日の全体集会は毎回1万人を超える参加者で埋まる(今は知らない)。後日参加する機会のあった私も、その多くの参加者のひとりになっていることで、冬季の集会にもかかわらずしぜんに体がほてってきた思い出が今も強く残っている。
 この金沢集会で宮崎先生は、福島の国語分科会の代表として「作文教育について」のレポートを発表している。

 先生が宮城にもどってからのことだが、ほとんど世間話をしない先生が、ある日、ポロッと「福島にいた時行った金沢集会に作家の石川達三が取材に来ていて、私たちの分科会にも来た」と言ったことがあった。それ以上のことは何も言わなかったが・・・。
 後日、石川達三が「『人間の壁』執筆のため8カ月間ぐらいを取材に費やした」と書いており、金沢集会もそのためのものだったことがわかる。「人間の壁」は朝日新聞の連載小説であり、私の学生生活後半に始まり、教職1年目の終わりに終えている。
 作品のなかに金沢集会の様子が詳しく取り上げられ、第1分科会・国語教育、「作文教育について(福島県代表)」として、連載後出された単行本でみるとほぼ3ページの文量で宮崎報告が紹介されている。
 先生の報告の最後は以下のように結ばれている。

 (前略)子供たちの生活の姿は、容易なことでは捕らえ難いものであります。子供の身辺にはたくさんの小さな悪がある。大人がいくらやかましく教えても、子供は悪いことをすることの面白さから離れることは出来ません。教育は、そういう子供たちを悪い遊びから遠ざけることによって目的を達するものではなく、むしろ逆に、悪い遊びのなかで、そういう遊びを通して、自己反省をそだてること、幼い良心をそだてること、道徳の芽を伸ばしてやることでなくてはならないと、私は思うのであります。
 そしてまた、そういう教育の目的のために、最も大きな効果を発揮するものは、自由な作文教育であると考えるのであります。子供たちは、ヘビやカエルをたたき殺したり、ナシ畑にもぐり込んでナシを泥棒したり、おとし穴をこしらえたり、墓石に小便をかけたり、そういう悪いことを繰りかえしながら、それを正直に、大胆に、作文に書きます。
 文章に書くという作業は、いたずらをした自分を客観することであり、反省することであります。子供たちは書くことによって、悪い遊びから徐々に卒業していく。教師は自由な生活作文を書かせることによって、悪い遊びから子どもを卒業させてやるのです。子供たちは、だれからの強制も受けないで、自分の力で自分をそだてていきます。真の教育とはそういうものでなくてはならないと、私は考えるのであります。

 石川は、この宮崎先生の報告をどううけとめたのだろうか。金沢集会では「国語教育分科会」の他に、「数学教育」「職場の問題」「理科教育」「基地の教育」「PTAの問題」の報告を作品のなかにとりあげている。この金沢集会の他にどこを取材したか私にはわからない。「8か月間ぐらいの取材」と書いているので、相当幅広く取材したことはまちがいなかろう。せっかくの機会なので、「人間の壁」を書き終えた石川は、連載した朝日新聞に1959年4月14日、「 “ 人間の壁 ” を終ってー私は旗じるしを決定した」と題する文を寄稿しているので、その一部を書き抜きたいと思う。

 (前略)現在の日本の社会が直面している様々な問題が、ある意味ではすべて教育問題のなかに集約されているかと思う。教育問題が容易に解決しないのは、日本の政治と社会とが完全に二つに分裂している、そういう現実の反映であった。この作品によって、何ものをも解決してはいない。ただ、問題につき当たり、この問題の輪郭を描いてみたに過ぎなかった。(中略)
 この作品は私にとって厳しいものをもっていた。はじめ私は自民党政府の文教政策を非難するつもりも、教職員組合を弁護するつもりも、何もなかった。いわば白紙の立場でとりかかった。しかし問題を追及して行くにしたがって、それを批判する私自身の立場が要求されるようになってきた。分裂している二つの社会のうちの一つを選ぶことを要求された。
 結局私は、いわゆる(自由な立場の作家)の自由さから、自分をはっきり規定する一つの立場を取らざるを得なくなった。私は自分の気持ちの底の方にあった反保守党的なものを、自分の表面に引き出して、はっきりと自分の旗じるしを決定することになった。その意味において、「人間の壁」は私を拘束する。私は朝日新聞の数百万の読者を裏切ることは出来ない。この作品は私の公約である。・・・

 この「人間の壁」は新聞連載のかたちで今も残っている。尾崎先生のことも。そして、「若ものよ/からだを鍛えておけ/美しい心が/たくましいからだに/辛くも支えられる日が/いつかはくる/その日のために/からだを鍛えておけ/若ものよ・・」と結ばれたことも。
 でも今はそれを語ることはできない。宮崎先生にもどらなければならないから。

 先生は、その年の4月、東北本線沿いで福島市に近い藤田小学校に転任。家族も一緒に槻木の自宅にもどり、先生は、汽車で通うことになった。前述したように、先生のことばで言えば、『人間づくりの学級づくり』は、この車中で書かれた。
 先生が宮城の職場にもどったのは1961年、学校は船岡小学校。退職の1974年まで同校になる。
 私が先生にお会いした黒川の授業検討会は、先生が宮城にもどられた翌年ということになる。( 春 )

 —  ※ これ以降の先生については後日、また書かせていただくことにする。—