先日、朝のテレビのニュース番組の中にはさまれた「冬点描」と題する短いスケッチで「中学生の新聞配達」を観た。
中部地方の山あいの60数戸の集落が舞台。ここに住むすべての人は、中学生になると新聞配達(朝刊だけと思うが)をすることになっており、その中学生たちの配達の様子を追ったもの。
映した時間は短かったが、一定の期間、追い続けて編集していたので彼らの様子はよく見ることができた。
他とことばを交わすことが得意でない内気な女子中学生が配達中に挨拶の声の調子が変わり、門の前で新聞を待つ住民ともしだいに会話をするようになっていく変化もよくわかった。だれかが注意したわけでも強要したわけでもない。新聞を待っている人たちとの間にしぜんに身についていったのだ。
この集落では、「中学生の新聞配達」は60年もつづいているという。門前で新聞を待っている住民も体験者であり、新聞をはさんでの中学生との距離はない。配達する中学生の心の内も同様だろう。寒さの朝でも新聞を渡す受け取る二人の間には温かい心の通い合いを感じる。
どんなきっかけで始まったのかは、聞き逃してしまったのだろうか、わからない。
観ている私の心まで温かくなった。学校にとって、これを超える住民からの支援はあるだろうかとも思った。
さて、今、どこかでこれを自分の地域でもまねてみようなどと言ったらどうなるだろう。親からも中学生からも一顧だにされないだろうと思った。
もっと小さい単位でもいい、新聞配達に限らなくていい、こういう試みがなされる世の中に戻ることは、もう無理なのだろうか・・・。( 春 )