2015年4月17日
サークルの4月例会はそれぞれの15年度の自己紹介から始まった。私はフリーになったことは言えても、自分の新しい在り方が定まらないので、なんとも情けない自己紹介になってしまった。
一周り巡ったあとで、教師2年目の若い人2人に、「YさんやMさんが何気なくしゃべっていた新しい学校や新しい学年のこと、そしてクラスの子どもたちとのことから、学ぶものがあったように思うが、そのようなものを拾い上げることは大事にした方がいいよ」とおせっかいを言ってしまった。
この頃、いろんな集まりでも、書かれた報告でも、かつてと比べると、具体的な子どもとのやりとりや子どもの様子などがあまり見られなくなったことは気になっていることのひとつなのだ。YさんもMさんも、スタート時の子どもとの関わり合いをたくさん話していたのだ。
書棚に付箋だらけにした国分一太郎「新しい綴方教室」がある。今でも時々引っ張り出す。忘れられないことがたくさん入っている。そのなかのひとつを以下に抜く。
きのう私は、私の家のうらの、私の家の畑の、私の家の桃をとってたべました。
なんべんもくりかえす「私の家の」は、かんたんに、削りさってよい、よけいなコトバではないのである。このモモは、けっして、「よその家の畑の、よその家のモモ」ではないのである。まさしく「私の家のモモ」なのである。かつて、他人のものを盗み、ドロボウ気があると、疑われている菊地松次郎の、心理状態を知っている、細心な先生だけが、この綴り方の深い意味を知ることができる。そして、かんたんに、この「私の家の
・・・」をけずりさることはしないだろう。
と、3ページ目に書いてある。
教師はたいへんな仕事である。自分を教師に育てるために五感を誰よりも働かせなければならない職業と言っても過言でないと思
う。多忙であればあるほど、自分のなかに大事にするものの順位をきめなければならないのではないか。