2015年2月17日
私は、石川達三の「人間の壁」を今でもひょっと手に取る時がある。“読む”のではない。手にすることで、かつて読んだことを思い出して、その後は書架にもどしているという言い方が正しいだろう。
今でも思い出して考え込む個所は、たとえば、次のような文だ。そのまま抜いてみる。
「子供の心のなかに、醜いものがなくはない。嫉妬も虚栄も狡猾さも、なくはない。しかし、一人の子供の心のなかから、美しさを発見するか醜さを発見するか。それこそ、教育者と非教育者とを区別する最大の分岐点ではないだろうか。」
「クラスの中の優等生と劣等生とを区別することは、教育と何の関係はありはしない。学習に必要な明るい生活と楽しい環境とをあたえ、学ぶことの喜びを知らせてやることが第一の条件である。」
現職時代は、たいへん刺激的なことばだった。さて今になって、「お前は石川の言う教育者であったか非教育者であったか、どっちだったか!」と問われたら、返事に窮してしまう。
現職時代の楽しかった思い出は数えきれないほどある。しかし、教師という仕事はたいへんな仕事だったんだと、思い出すたびにぞっとする。よい子どもとよい親に恵まれ支えられてなんとか卒業できたのだとつくづく思う。
2つめの抜き書きの個所は、学力向上の旗を振り回して、テスト・テストと騒いでいる現在の学校と結びつく。幸いにも私の現職
時代にはなかった。石川の教育観に私は同感なので、子どもたちが可哀そうで仕方がない。
他人事めいた言い方になるが、なんとかならないものだろうか。学力向上騒ぎにまきこまれ、「学ぶ喜びを知らない」で学校を出
て行く子どもがいるとしたらたいへんなことだ。
打開のひとつとして考えられるのは、教育研究者が、石川に負けずに現場への提起をもっともっとすることではないか。