mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

1月18日

2015年1月18日

16日の河北県内版に「県独自学力テスト」の結果が発表され、「正答率 目標下回る」「小5、中2ともに国語は『書くこと』に課題があった」「英語も『書くこと』の正答率が低く、コミュニケーションが問われる『聞くこと』が重視され、『書くこと』がおろそかになっていることがうかがえた」などと書かれていた。

 小学校教員だった私は、このような記事や文を目にするたびに、めいるような気分になってしまう。テストを繰り返してその平均点がいくらで、目標を越えた越えないなどと一喜一憂することで教育の何がどうなるというのか、私にはまったく理解できないのだ。

テスト実施主体である県教委は、今度もまた「学力向上に一層力を入れるように」とか「『書くこと』に力をいれるように」と学校現場をムチ打つのだろうか。そんなことで教育の実をあげることができると本気で思っている人はそう多いとは思えないのだが・・・。

教育という仕事は、ある部分をつまんで問題にすることや時間をやたらかけることで成果があがるとか、教科ごとに良い悪いという見方をしたり、教科の一部分を問題視することで成果が上がるなどという簡単なものではないように私は思う。

 ひとり一人違う生き方をしている子どもをひっくるめて平均点を出してもまったく意味がないどころか、そのように見られ(測られ)て云々される子どもたちは生きる喜びも学ぶ喜びももてるはずはないのではないか。

12月末発行のセンターつうしん77号別冊にSさんの「国語・英語協同授業の報告」を載せた。高校での実践であり、国語教師Tさんと英語教師Sさんが「百万回生きたねこ」(佐野洋子さく)を一緒に読んでいった報告である。私も授業を見せてもらった。

この報告に紹介されている生徒の感想文がたいへんよい(紙数の関係で全生徒の文を紹介することはできなかったのだが)。これらの文は、SさんとTさんふたりの創った授業が書かせたものであり、特別「書かせる」ための指導が産んだものでは決してない。

 教育という仕事はそのようなものではないか、テスト主義や競争主義によって育つもでは決してないだろう。(センターつうしん77号に関心のある方はご連絡ください)。