mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

夜空に瞬く、❝すばる❞ のように(上)

 雨が降りつづく。無理に家に閉じ込められた気分でぼんやりとしている時間が多くなると、しぜんに過ぎた日のこと、お世話になった方々とのいろんな場が浮かんでくる。 
 立ち上がって、書棚から「養賢堂からの出発」を取り出す。大村榮先生が1986年に「ぎょうせい社」から出された本だ。
 裏表紙裏に、河北新報2001年6月5日の切り抜き「残照」が貼ってあった。「元小学校長、すばる教育研究所長 大村栄さん(87) 2001年5月25日死去」とある。その中に、以下のような部分がある。

・・・73年3月、仙台市木町通小の校長で定年を迎え、「宮城県教育百年史」の編集主任に推された。この仕事を通じて、晩年の研究テーマ「大正自由教育」と向かい合う。
 「日本で真の自由教育があったのは、大正時代のある時期だけ。大正自由教育がなぜ生まれたのか。突き詰 めると、今の教育を考えるうえで大切な問題に突き当たるような気がする」。大村さんはそう語っていた。
 98年3月発行の「教育すばる」第41号から、「『大正自由教育』の流れ」の連載を開始した。第45号に5本目の論文を掲載した99年5月、体力の限界を悟る。・・・

 大村先生にはたいへんお世話になった。76年は私の宮城県職員組合専従の3年目。任期最後の年であった。宮城県職員組合協議会で話し合って、宮教協として「宮城県国民教育研究所」を設立することにし、それぞれの組合大会で提案することにした。

 私たちの大会の直前に大村先生にお会いしたおり、研究所設立の提案をする話をすると、先生はたいへん喜んでくださった。
 しかし、大会では「時期尚早」という理由で否決されてしまった。他の4つの組合は可決されていたのに。今振り返ると、若い私の不勉強が、大会代議員に研究所設立に希望のイメージをもってもらうことができなかったのだろうと思う。
 直後に大村先生に大会の結果を報告すると、先生は、「じゃあ、私たちで、民間の教育研究所をつくりましょう」と言うのだった。先生は、百年史編纂の仕事の終わりにさしかかって忙殺されていた時期だったのに、少しも迷うことのない言い方だった。

 そして、翌年の9月、大村先生宅の門柱に、菊地新先生の筆による「すばる教育研究所」の看板が掲げられ、機関誌「教育すばる」創刊号も発行された。
 所の会議は大村先生宅で定期的にもたれ、メンバーは、大村所長の他に、宮崎典男・菊地新・鈴木市郎・村田幸造さんたち。それに、印刷関係を一手に担う北村秀雄さん(きた出版初代社長)がいつも入っていた。現職の私は会議の末席にたまに座らせていただくことがあり、大きな勉強の場になった。

 「教育すばる」創刊号の表表紙裏には、「すばる出発」として、次のようなことが書いてある。

・・・わたくしたちは、こうした現状に深い憂いを感じつづけてきた。子どもたちを、とめどもなく広がる教育の荒廃から救い出すために、今やじっとしてはおれない気持ちである。たとえ、小さくともおたがいの経験と知恵とを持ちよって、新しい解決の道を切り開くことはできないものだろうか。
 しかも、その努力を一時的な試みにとどめることなく、持続的な交流を通して、まず自分たちを相互に成長させ充実させることから出発させたい・・・・・・
 わたくしたちが、このたび小さな研究所をつくり、ささやかな機関誌を創刊するのも、こうした切実な願いからに外ならない。
 寄りそって夜空をかざり、古くから人びとに親しまれてきた和名の散開星団にちなんだ、わたくしたちの「すばる教育研究所」と、その「機関誌」とが、皆さまのご支援によって、いささかの光を放つことができたらと、心から願っている。

 いま、あらためて読むと、書き手はほとんどが現職をはなれた方々でありながら、どのページをめくっても生き生きとした文が踊っており、私などよりはるかに若々しい姿を突きつけられた感じだった。ーつづくー ( 春 )